外なる者たちを主の下へ
イザヤ42:10-13
「主に向かって新しい歌を」歌え。このフレーズは、詩編でもおなじみです。時に自分へ、あるいは同胞に対して働きかける言葉です。さあ、主を賛美しようではないか。それも、今のこのフレッシュな信仰を表に出して、主と出会う喜びを弾け出すように歌おうではないか。ところがここでは、「地の果てから」歌え、と言っています。
イスラエルから遠く離れた地から、主を称える歌を響かせよ、というのです。海が見えます。新約の時代なら、この海の向こうに人はローマを見たことでしょう。海から現れる怪獣の如き存在は、黙示録の記者にとって、ローマ帝国と重なって考えられた似違いありません。旧約にイザヤにおいては、さすがにローマは想定されていませんでした。
しかし、大帝国やエジプトなど、脅威をもたらす敵を見ることはありました。それなのに、ここに挙げられたのは「ケダル人の住む村」や「セラに住む者」です。ケダル人とは、恐らくイシュマエルに由来する民族であり、アブラハムの子孫です。但し、文化的にはイスラエルと決裂してしまった、アラブ人の系列にあると思われます。
セラとは、ヨルダンの地だと言われています。イスラエルの周辺地域でもありますし、いくらかのつながりのもてるところでもあります。「地の果て」と呼ぶにはあまりに近い気もしますが、当時の感覚ではそう言っても差し支えないことにしておきましょう。「声を上げよ」「喜び歌え」と促すことで、主なる神の下に加わるように、と言うのでしょうか。
あるいは、主はこうした他国の上にも立つお方であって、賛美を皆から受けて然るべきだ、という意味かもしれません。海からも山からも、凡ゆる地からこの主を称えよ。その栄光は、散り散りに存する島々にも及びます。イスラエルの外域は、確かに「敵」です。しかし、勇士であり戦士でもありますから、主は、こうした民族に対しては無敵です。
イスラエルから見て敵と見られた者たちも、同じ主の下にある人間だという観点は、いまの私たちにも及びます。いえ、人の目には敵と見えるような者たちが、もはや敵とは呼ばれない存在へと帰られてゆく図式がここにあるとき、私たちが敵を見ているとは言えなくなります。この私が、その「敵」であるのです。その意識が、必要なのです。