『東京大学の式辞』(石井洋二郎・新潮新書)
東京大学の教養学部学位記伝達式において、学部長として式辞を告げたことが、マスコミの話題になったことがある。2015年のことである。1964年の東京大学の卒業式で大河内一男総長が語った、J.S.ミルの式辞がメディアで大きく報道されたことについて、三つの間違いがそこにあった、と話したのである。そこから、「けっして他者の言葉をただ受動的に反復するのではなく、健全な批判精神を働かせながらあらゆる情報を疑い、検証し、吟味した上で、東京大学教養学部の卒業生としてみずからの名前を堂々と名乗り、自分だけの言葉を語っていただきたい」とも言っている。
実はこの件についても、本書で説明されているので直にお読みくだされば幸いである。「歴代総長の贈る言葉」というサブタイトルもあって、消費者の中には誤解した人もいるようだ。歴代の式辞が資料として載っている本だと期待したら違った、と不満をもっている声があったのだ。これはお門違いであろう。新書である。資料集ではない。それについての見解を述べていることは、常識からしても当たり前である。自分が勝手に期待したことと違うから低評価、というような読者も、世の中にはいるのである。
本書は、時代の中で、東大というひとつのカテゴリーの中ではあるが、大学という場から次のステップへ進む若者に対するメッセージの意味を問うものである。東大というところについて私は知る由もないが、日本における最高学府という自負と責任とがあって然るべき場である。いわば日本の次の世代を担う人たちへの、真摯な本音が明らかにされていた、と見なすに相応しいものと言えよう。他の大学でも、そうしたメッセージは当然あるが、ここは著者自身の知る環境に絞ったとしても、新書の価値を下げるものではあるまい。そこには、「知」とはどうあるべきか、それを問う時代時代の証言があるはずである。
繰り返すが、これは資料集ではない。著者の見解を述べたものである。しかしそこに普遍性が含まれなければ、読者に支持されることはあるまい。学問と時代とに対する、熱い思いを感じる作品となっているに違いない。それを、自分の思いだけで伝えるのではなくて、大学の代表者がその卒業者に対して力をこめて伝えてきたメッセージの数々の中から、糸を引き出すように、提示しているのである。
明治の頃から太平洋戦争時まで、日本は戦争を是としてきた。今の世のように「戦争反対」を軽々しく口にできる社会ではなかった。しかし、学問をなすように育てた学生が、戦地に命を散らすということは、断腸の思いであったに違いない。時に、引用は式辞だけではなく、たとえば戦没学生の記からも見せてくれる。もしかすると、今の世にあるように、他国の人とも友情を結ぶことができたかもしれないのに、その同じ世代の若者を、どうして憎まなければならないのか、殺し合わなければならないのか。疑問に思う心があっても当然である。しかし、それを圧殺するものが社会にあった。否、そういう社会を、人がつくっていた。空気のせいではない。空気は人の呼吸でできるのだ。
それでも、戦争へと駆り立てねばならない大人の立場というものが、総長とはいえ、あったのも確かだ。しかし、著者はそこにも何か、わずかでも、たんに権力に阿るだけではない何かがあった点を、著者は拾う。一見、弁護のように見えるかもしれない。だが、それはきっと公平な見方なのだ、と私は思う。自分は安全なところから眺めて、過去の人の判断を断罪する、それは簡単なことだ。だが、いまの私たちも何かしら同様の基盤の上にあるという前提を自覚して、いまできることがある、という意思を示すような姿勢として、過去の人の検討した点を見出すことは、必要なことなのだ、と思うのだ。
もちろん、今だったら完全にアウトというような考え方も過去には多々ある。それを非難するのではなくて、当時の社会がそうだったのだという意見で収めてしまうのは、いかにも弁解や身内意識であるように指摘する読者がいるかもしれないが、そこはやはり、著者のように、時代とは何なにかを捉えるアンテナとしておくことに、意味を感じていたいと私も思う。現代の私たちも、自分たちが許しているようなものがあり、それが後の時代に非難されるものであるという可能性があるからである。現に日本では、女性の地位においては、世界各国の中でも最下位に近いような場面があるではないか。それを当然のものとして許している私たちは、いまの世界の常識からしても、アウトなのではあるまいか。
詳しく紹介することは無理であるが、本書が紹介する総長の中で、際立つ二つの章がある点はお伝えしたい。それは、南原繁と矢内原忠雄である。戦後の東大を導いた二人のキリスト者である。著者もまた、彼らがキリスト者であることを、その姿勢の背後にある重要なベースとして理解する。これほど宗教的なメッセージすらあったのだ、というような示し方もするが、人間が理想を追求するにあたり、キリスト者たる生き方に大きな意味があるという感慨を懐いているのではないか、と思わせるような書き方が随所にある。無教会であろうが何だろうが、同じキリストを主と仰ぐつながりの中で、これは他のキリスト者にとっても誇らしいことであり、また自らを戒めるためのメッセージではないかと思う。思わなければならない。
その後の時代においても、学問の置かれた情況や、教育制度の揺れの中、経済状況や国際状況の変化の中で大学がどうあるべきか、それを問うような歴代の総長のことが紹介される。学生に対して、それは告げ、問うものであると共に、おそらくは総長自ら、そして大学自らが、己れに対して問うているのではないか、と私は推察する。
本書が引用した総長の式辞は、『式辞告辞集』にまとめられているものを用いている。あまりに近い時代のものは、まだそれにまとめられていないという。それは本書で扱うことにはしていないという。ただ、近年話題になった「来賓の祝辞」を、「補章」という形で最後に付している。総長という立場とは異なる視座は、時に思い切った発言をももたらすことになる。そこには、私が電車の中で読んでいて、思わず涙したものもある。引用ではなく著者の指摘した文章ではあるが、そこだけ最後に取り上げておくことにする。
自分が恵まれた環境にあったからこそ今日の自分がある。しかし世界中には環境に恵まれなかったために、がんばることすらできなかった人たち、がんばろうという気持ちさえ抱けなかった人たちがいる、あなた方はせっかく環境と能力に恵まれたのだから、そうした人たちのことを常に念頭に置いて、自分の力をそうした人たちのために使ってほしい――(p238)