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絶望ゆえの勝利

黙示録を読み解くひとときが続く。17章が開かれたが、ここから18章辺りまでが、実に黙示録らしいというか、謎めいた記述が犇めいているという。それは荒唐無稽なもののように見えるかもしれない。だが、こういう表現に出会ってこそ、私たちは知る。世界を、別の眼差しで見るようにさせてくれるのだ。説教者はその点に触れた後、キリスト者と教会は、この黙示録があったからこそ、歴史の中で闘い続けることができたのだ、と断言した。黙示録あってこそ。そこに、黙示録の意義がある。
 
天使の一人が私に、「ここへ来なさい」(17:1)と語りかける。今から見るものは、「大淫婦」への裁きであるという。聖書のほかでは聞くことのない単語のように思われる。あるいは、黙示録を利用したゲームのキャラクターの世界程度であろう。原語では、「大」がわざわざ付せられて、「淫婦」という語がある。英訳では「harlot」または「prostitute」とされている。「売春婦」と訳したほうが、より明確に伝わるような気がするが、「淫婦」となると、金銭のやりとりとは関係がないことになる。ここでは、金品を受け取っているようなので、前者でもよかったのかしら、と思う。
 
思い出したのは、一昨年生誕百年を迎えた三浦綾子さんのことだ。創作された文学作品の他にも、有名な自伝をいくつか書いているが、その中で、二重婚約をしていた自分が「ヴァンプ」だと言われていたことに触れている。「妖婦」とでも言えばよいのか、要するにここで言う「淫婦」とさほど違わないものと思われる。「vamp」はその意味に限らず、「継ぎ当てをする」「でっち上げる」などの意味をもち、ジャズでは即興の伴奏を意味することもある語だが、三浦綾子さんの若かった時代(その後の文学でも見た記憶がある)には、当該の意味をもつ、ふしだらな女を指す語として流行していたらしい。
 
しかし聖書では、このことは、要するに他の神を拝み、主なる神から離れた信仰をもつようになることを意味する。説教者はそのことを、「自己中心的となる」のだと、言葉早く述べたが、この点は非常に奥深い。私はそのからくりについては、各方面で触れているので、ここでは繰り返さない。
 
「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)という問いを、説教者はここで楔のように打ち込む。これは私の救いのため、私の足場を突き崩すのに決定的な聖書の言葉だった。創世記3章である。また、「あなたの兄弟はどこにいるのか」というように、カインに神が尋ねる場面にも触れた。その「大淫婦」に直面して、私たちは態度を決めねばならない。それは売春婦であれ、ただの淫婦であれ、その淫行は、単独でできるものではなかったのだ。私たちは、いつでもそれに巻き込まれる当事者であり得ることを、忘れてはならないであろう。
 
聖書は、何故この大淫婦を持ち出したか。これがバビロンであることを示すためだった。だが、黙示録の時代で言えば、恐らくやはりローマ帝国を暗示していると見なすと思われる。だが、説教者はここで強烈な注意を促す。バビロンだローマだ、とその歴史性を謎解きのように指摘することで、私たちは、それを他人事として取り扱ってしまうことになりやすい、というのだ。これも全く賛成である。歴史の謎を調べて、それは自分のことではない、と安心してしまうことの罠を、見破らねばならない。
 
聖書に~とあります、とひたすら繰り返すことを説教だと勘違いしている人がいる。聖書は常に他人事なのである。聖書の中に入ったことがない人は、こうした錯誤を続けることになる。これを聞いて礼拝をしているように錯覚していくと、健全な信仰をもっていた人もまた、狂わされていくことになるだろう。
 
「ここに、知恵のある考えが必要である」(17:9)も、一つの示唆を与える。「知恵」は、ユダヤ文学でも重要な概念である。簡単には分からないが、よく言われるように、「知識」の問題ではない。これは私の印象だが、後に西欧哲学が「ハビトゥス」という語を用いることと、つながるものがあるような気がする。トマス・アクィナスの『神学大全』の抄訳が出ているが、これを仕方がないにしても「習慣」と訳し通している。しかしこの日本語で賄うのには無理があるように思われる。かといってどう訳せばよいかも分からないから、訳者はもちろん、熟考してその訳語を選んだという点には敬意を表する者である。しかし、「知恵」は「ハビトゥス」とも違う。確かに、ユダヤ文化の内部にいる人にとっては共有できる「ハビトゥス」であるかもしれない。選民として、他の民族とは一線を画すところに現れる「知恵」である。しかし、実のところその中でも差異が生ずるはずである。だからこそ、かの「大淫婦」にふらふらと吸い寄せられていった仲間が、多数いるのだ。
 
しかし、黙示録は叫ぶ。「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」(17:14) 大淫婦では、この小羊にはしょせん勝てないのだ。黙示録は、高らかにそれを宣言している。どのようにその戦いが進行するのか、それはわざわざ描かれることがない。必要がない。
 
信徒個人の力は弱いかもしれない。だから教会というつながりが備えられる。もちろん、その教会ですら、力がない。巨大な悪に揺さぶられるだろう。国や社会を変える力がないために、絶望感に襲われるかもしれない。日本の宣教の有様はどのようであるか、現実を見ろとせせら笑う者を感じるかもしれない。しかし、『福音と世界』の最新号に指摘する論文があったのだが、ドイツにしても、礼拝に忠実に出るドイツ人は1割くらいではないか、というのだ。聖書を日々読むのは50人に1人、などというデータも紹介されていた。違うのは文化的背景のようなもので、言ってみれば、日本人が仏教徒と自称し、寺に関わっているようなところに近いようにも見える。だから、国や社会を変える力が、まだこにはあるということになる。
 
弱い日本の教会の実情を鑑みつつも、説教者は、希望を説く。ここに小羊が勝利すると決められているではないか。私たちには、主の主、王の王が共にいるではないか。私たちは、イエスを知っているが故に、愛と赦しに生きることができるのではないのか。
 
マタイ伝の荒野の誘惑を、説教者は分析し、経済的誘惑・宗教的誘惑・政治的誘惑だと指摘する。イエスは、かくも多角的に闘ったのだ。そして、そうした道々で勝利された。私たちへも誘惑は次々と押し寄せてくるだろう。怖いのは、それが誘惑だという顔をしないで近寄ってくることだ。それが誘惑であると気づかないままに、動かされ、流されてゆくというのが私たちの敗戦のパターンであるのだ。だから、目を覚ましていなければならない。まさかあれが誘惑だとは気づかなかった、という後悔のないことを祈るばかりだ。
 
先週の、加藤常昭先生の葬儀のことに、説教者は触れた。長く牧会を務めた、鎌倉雪ノ下教会が会場であった。いまその教会を背負う牧師の葬儀での説教は、ありきたりのものではなかったという。その詳細をここでレポートはしないが、要は、加藤先生が「絶望を知る人」であった、ということが知らされたのだという。さらに言えば、「怖れず絶望した人」と言ってよいのだそうだ。あるとき、絶望した人が相談に来た。普通ならば、何らかの励ましをしたくなるところであろう。心ある人ならば、傾聴に徹するかもしれない。しかし加藤先生は、自分も絶望しているのだよ、と告げたのだという。
 
絶望していい。もうだめだ、と。しかし、勝利している方がいることを知れ。それが小羊イエスだ。その傷だらけの、みすぼらしい姿が、勝利のしるしなのだ。人間だけでは、まして自分だけでは、勝利はできない。そんな力はない。自分を見れば、そこには絶望しかない。否、絶望すべきだ。自分に絶望したからこそ、あの方を見上げるようになる。ぼろきれのように十字架に架けられた、あのお方のところに、勝利がある。約束された勝利が、そこだけにある。
 
もうずいぶんと前のことだが、私を通じて生まれた賛美の歌詞だけを、ここに掲げることにしたい。
 
 
    罪人だからこそ
 
 
  はじめは見えなかった
  聞いても分からなかった
  どうしようもない罪の力が
  わたしの内にあった
 
  神のひとり子が
  尊く聖いおかたが
  ぼろきれのように見るかげもなく
  木に架けられている
 
    けれどもそれは勝利のしるし
    闇に輝く凱旋の旗
    ハレルヤ それは勝利のしるし
    闇に輝く凱旋の旗
 
 
  罪人だからこそ
  わたしは見えた 聞こえた
  あなたの呼ぶ声 戸を叩く音
  わたしを救う愛
 
    すべての罪は赦されている
    この十字架はわたしのために
    ハレルヤ 罪は赦されている
    この十字架はわたしのために
 
 
  罪人だからこそ
  わたしは戻って来れた
  あなたが忍んだ血の滴りが
  わたしの道しるべ

    ――『オリーブ賛美集』より

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