このレースはイエス杯 (ヘブライ12:1-3, 申命記21:22-23)
◆呪い
フランス人形と、ワラ人形と、リカちゃん人形がかけっこをした。どべ(いちばん最後)は誰でしょう。
ナンセンスなぞなぞが流行ったことがありました。ラジオの深夜放送で聞いたような気がします。お分かりでしょうか。答えは、ワラ人形です。わけは、「のろい」。
呪いというと、もっと怖い、重たいもののようですが、ずいぶんと舐められたものです。笑いに変えられてしまいます。藁人形についての説明は、やめておきます。本当にご存じない方のために言えば、人を呪うために用いる人形だ、ということだけ告げておきます。
哲学者の梅原猛は、文化的に政治的に、ずいぶん右派に取り入ってしまうことになりましたが、学閥に囚われず、自由に日本思想に立ち向かっていった姿勢は注目できます。古代日本の思想に、呪いや怨念の視点を加えて歴史の謎を解く思想の挑戦は、若い私をときめかせました。哲学は、こんなふうに活躍できるのだ、と思いました。
梅原猛もそうでしたが、こういうふうにして、西洋思想を潰してやろうという私の無謀な思い込みは、その後簡単に崩れ去ります。そして、私が神の前に引きずり出されるきっかけともなりました。
因みに「呪」という漢字は、一説には「いのる」様子を表していると言われます。「兄」が、人が祈る姿です。「口」は、神に献げる言葉を納める器でしょうか。呪うのも、神を前にしていることになります。なお、「口」を「示」に変える漢字があります。「示」は、神を祀る台のことだと言われ、要するに「神」に関することを意味します。これが「祝」です。「呪い」も「祝す」も、紙一重であるように見えるのは、どちらも神の前に儀式を行っていることになります。
◆旧約聖書の呪い
詩編にも「呪う」という言葉が幾つかあります。
彼らは人をその地位から引きずり下ろそうと謀り/偽りを喜び、口で祝福し、腹の底では呪う。(詩編62:5)
呪いがその身を包む衣となり/いつも締める帯となった。(詩編109:19)
これらは敵が自分を呪ってくる様子を描いてします。しかし、敵からのこうした呪いを、神は祝福に変えてくださいます。
彼らが呪っても、あなたは祝福してくださいます。/彼らは反逆して恥をかき、あなたの僕は喜びます。(詩編109:28)
正に、「呪」と「祝」が紙一重である情況が、ここにあると言えます。これがイスラエル民族全体についてあったことが、民数記22-23章に描かれています。バラムの話です。ゆっくりこれを辿る時間がありませんが、少しだけご紹介します。荒野を旅するイスラエルの膨大な民を見て、モアブの王が、これを呪ってくれ、とバラムに依頼します。霊能者なのでしょうか、バラムは呪う力があったようです。
ところがなんと神自ら、このバラムに話しかけます。そして呪ってはならないこと、逆に祝福するように、と命じます。それでモアブの王が苛々する様子がよく描かれています。ここだけを見ると、バラムはイスラエルの味方のようですが、聖書の他の箇所ではバラムの評判は悪く、特に新約聖書では、悪人の代表のように描かれています。
「呪い」ということでは、ひとつどうしても、申命記を覚えておく必要があります。申命記では、祝福と呪いとが強く対比されていました。28章前後は、呪いのオンパレードです、
私は今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出し、命と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。(申命記30:19)
◆自覚の必要性
「呪い」というのは、何らかの方法で、災いや不幸を誰かにもたらすことをいう、としておきましょう。「人を呪わば穴二つ」という言葉があります。人を呪うならば、相手の墓穴と共に、自分の墓穴も掘ることになる、という戒めです。なるほど、呪いは自分に還ってくる、ということなのでしょう。
先ほど詩編から「呪い」という言葉があるものを少し紹介しましたが、詩編には、そもそも敵に対する呪いを強くうたうものが数多くあります。とても教会で、そこから説教するということができないような表現がひしめいています。敵が不幸に陥るように、敵が滅びるように、と呻くように言い、また神がそうしてくれ、とも願いますから、それは正に「呪い」に違いないと思います。でも、私はきっといつか、そこからでも自在に必要に応じてお話ししようと決心しています。
イスラエル民族の虐げられた歴史を鑑みるに、それは仕方がない面もあろうかと思います。しかし、現代ではキリスト者が多数派となり、あるいは敬虔なクリスチャンとして善いもののように見なされています。へたをすると、錯覚を起こしてしまいます。自分は神の味方である、神は常に自分の味方である、だから、私は常に正しい――というように思いこんでしまう罠があります。よほど気をつけていないといけないと私は思います。
福音書だけを見ると、ファリサイ派や律法学者などという人々は、激しい悪人のように錯覚してしまいます。イエスが彼らをけちょんけちょんに非難したからです。しかし、彼らもまた、自分は神の側にいる、と信じていました。そして実際、「正しい」生活をしていました。律法を守ることに懸命であり、真面目で一途であったのです。
歴史上のキリスト教会も、しばしばこうしたファリサイ派と似たようなところに傾いていくことがあったような気がします。もちろん、いまもなおです。愛の冷え切った自らの姿に、全く気づかないことえ珍しくありません。むしろ、自分の愚かさには、気づきにくいものだ、と言ったほうがよいかもしれません。
ですから、自分が冷たくなったこと、自分が高慢になっていること、それに気づくということが、「目を覚ましている」ということなのだ、と説明することができるように私は思っています。その逆が、「眠りこけている」ことになります。
◆呪われて然るべき
人は、自分の罪には気づきにくいものです。ダビデがナタンにより、あれだけ露骨に例話を出されても全く気づいていなかったのもそうです。ひとは、どうあっても罪の罠に陥るし、自分では気づかないのです。気づかずにひとを傷つけていた、ということに気づかされたとき、私は消えたくなりました。自分の罪というものを、神の前に知りました。あのときの全身が冷えていく感覚は、忘れることができません。
いまもなお、無神経に善良なひとを傷つけているのだろうと思うと、怖いものです。もちろん、イエスが権力者やエリート層に真っ向から挑んだように、適切な批判というものは必要です。その批判のために傷つけられた、と文句を言う人がいても、申し訳ないけれども、私の失敗だ、というようには思わないことがあるでしょう。自分が正義だと主張するつもりはありませんが、言わねばならないことは確かにある、と思うからです。
それでもやはり、私は無垢ではあり得ません。不完全な存在として、見当違いなことをし続けていることも想定しなければなりません。自分のつまらなさと出来の悪さから、それにすら気づいていないのだろう、と思うと悲しい気持ちになります。ですから、適切に指摘してもらえることは、ありがたいものです。そのように指摘することは、ひとつの愛だと思います。
こんな私を、呪っている人がいるかもしれません。エレミヤも嫌われました。ホセアは、尽くしても尽くしても冷たい仕打ちに遭いました。ダビデは自分を呪う者に対して、あれは神が言わせているのだから甘んじて受けようと忍耐しました。できればこれは見習いたい姿勢だと考えています。ひとからの呪いは構いません。仕方がないのです。しょせん鼻で息をする人間ですから、恐れる必要はないのです。
怖いのは、神からの呪いです。おまえは依然として罪の者ではないか、と睨まれていたら、怖いと思います。申命記にあるように、神の呪いを受けるということが分かったら、これは怖いものです。
けれども一方で、自分は呪われて然るべきだ、という残酷な確信がありました。考えれば考えるほど、私自身は、神から呪われて当然なのでした。
◆イエスが呪われた
人は呪われて然るべきである。神の裁きを受けることになっていたはずでした。
8月6日は、人間を殺すために原子爆弾が初めて落とされた日です。広島の町が廃墟となりました。次いで9日には、神に祈る信徒の多い長崎、しかもその教会の一つが爆心地となりました。殺された人々は、呪われたのでしょうか。そうではない、と信じます。けれども私には、答えは出せません。何故殺されたのだろうか、という問いに対する答えをもたないからです。でも、問い続けることは大切だ、と捉えています。
呪われて当然の私。それは二千年前のユダヤの地にもあった意識だったと思います。しかしイエスは、呪いをもたらすために地上に来たのではありませんでした。神はイエスを地上に送り、人間が呪いの中に留まらないようにする道を拓いたのでした。その代わりに、イエスを十字架の呪いにかけたのです。十字架の死は、呪いの極みでした。申命記の21章は、そのことを示しています。
22:ある人に死刑に当たる罪があり、処刑される場合、あなたは彼を木に掛けなければならない。
23:あなたはその死体を夜通し、木に残しておいてはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない。木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである。あなたは、あなたの神、主があなたに相続地として与える土地を汚してはならない。
イエスの生涯は、旧約聖書(旧いという語に抵抗をおもちの人もいるでしょうが、ただの記号として用いることをお許しください)に裏打ちされたものでした。キリストとはメシアのことです。旧約聖書に根拠をもち、やがて救いの王が現れるという信仰がありましたが、その根拠があったからこそ、このイエスこそそのキリストである、救い主である、と見なされたのでした。イエスが超能力をもっていたとか、新しい教えを語ったとか、そうしたことでイエスがキリストと呼ばれたわけではありません。
木に掛けられた者は呪われるのです。十字架という見せしめの殺され方は、呪われた者そのものでした。本来私が呪われなければならないのに、私ではなくて、聖くて正しいあのイエスこそが、呪われる存在となってしまった――それを知ったとき、どんなに私の心が救われたことでしょう。皆さまも、そうお思いではありませんか。
◆先人たち
礼拝説教をする人にも、いろいろあります。上手いとされる人がいたり、さほど上手くない喋り方の人もいるでしょう。ただ、必ずしも話すテクニックがどうだということは、基本的な問題ではないと考えます。信仰があるかどうか、まずはそこです。信仰がなくても、説教は話せるのです。それっぽい恰好をして、それっぽい肩書きをつくれば、説教らしいことを話すことは簡単なのです。信仰に実感のない人がいる、と言ってもよいでしょう。神に出会ったことがなければ、神の言葉を語れるはずがないのです。
神の言葉は、命の言葉。それを伝えるものは、話の上手い下手ではないはずです。いうなれば「霊」が働くかどうかですが、話す者が神と出会ってこそ、そこから紡ぎ出されるものが、人々に伝わるのであり、「霊」が働くのだろうと思います。
歌手のコンサートに、実際に行った人が話すことは、そのコンサートを知る人には、ちゃんと伝わるでしょう。けれども、せいぜいCDしか聞いたことがない人が、いくらコンサートのことを、見たかのように話しても、ピンとこないでしょう。
新約聖書の中に、神と出会って神に生きた人のカタログがあります。これを読んで、ひしひしと感じるものがあるかどうか、読者が試されるのかもしれません。ヘブライ人への手紙の中で、恐らく最も有名な章でしょう。11章には、「信仰者の列伝」などと呼ばれることがあるほど、旧約聖書に登場した人々の信仰の生々しい姿が並んでいるのです。
ヘブライ書、と呼ぶことにしますが、これはヘブライ人、つまりユダヤ人あるいはイスラエル人と呼ばれる人々に宛てたことになっている手紙です。旧約聖書をよく知っており、そのうえでイエスを救い主だと信じている人々が、その読み手です。
旧約聖書の律法の規定などは、読む者は承知のはずですが、それをこの文書はよく説明します。それというのも、それらの旧い規定が、イエスによって実現したことを理解させようとするからです。またイエスがどのようにそれを実現したか、を説明しようともします。これは信仰のひとつの教科書であり、しかも旧約聖書をよく知るユダヤ人への適切な解説ということになっています。だから、これは手紙というよりも説教だ、と言う人も少なくありません。
そこに記された人々の信仰の人生は、かつて神に出会った人々の信仰生活です。まずは有名な人の名前を挙げ、旧約聖書に記録されたそれぞれの生涯を辿った後、それらの人々の姿を次のように簡潔にまとめます。
33:彼らは、信仰によって、国々を征服し、正義を行い、約束のものを手に入れ、獅子の口を塞ぎ、
34:火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者が強くされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。
35:女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、さらにまさった復活を得るために、釈放を拒み、拷問にかけられました。
36:また、他の人たちは、嘲られ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。
37:彼らは石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、欠乏し、苦しめられ、虐げられ、
38:荒れ野、山、洞穴、地の割れ目をさまよいました。世は、彼らにふさわしくなかったのです。
ところが11章が終わると、キリストであるイエスに話題が移ります。イエスは、こうした信仰者の列伝を結ぶために登場する方でした。そこには「信仰の完成者」だとも書かれています。ひとつの結論を先走ってお話しします。旧約聖書の信仰者たち、それらをまとめるイエス、そこでヘブライ書は終わりますが、この信仰者の歴史はまだ続いています。現在も延長して信仰者の名がつながっています。そして、そこにいま「あなた」が加わろうとしているのです。あなたが、信仰者の列伝に加えられるのです。そのことにこれまでお気づきだったでしょうか。
◆共に走ろう
1:こういうわけで、私たちもまた、このように多くの証人に雲のように囲まれているのですから、すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。
2:信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。
3:あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。
信仰者の列伝の後、12章でこのように、先ほど申しました「信仰の導き手であり完成者」としてイエスが紹介されています。そのイエスを見上げて、さあ走ろう、と読者に、そして「あなた」に、もちかけます。お年を召して、走るなんて、とお思いかもしれませんが、息切れする心配すら必要ありません。イザヤ書40章が書いていたではありませんか。
28:あなたは知らないのか/聞いたことはないのか。/主は永遠の神/地の果てまで創造された方。/疲れることなく、弱ることなく/その英知は究め難い。
29:疲れた者に力を与え/勢いのない者に強さを加えられる。
30:若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。
31:しかし、主を待ち望む者は新たな力を得/鷲のように翼を広げて舞い上がる。/走っても弱ることがなく/歩いても疲れることはない。
ずっとイエスのことを思うのです。十字架を忍んだ方のことを偲ぶのです。私たちにはどうしても罪が絡みつきます。罪から完全に解放されている人はいません。それこそイエス・キリストのみです。自分に絡みつく罪を感じない人は、実はイエスを知らない人です。十字架の主を知らない人です。
しかし、それを知る「あなた」には、仲間がいます。信仰者が周りにいて、同じキリストの証人がたくさんいます。「雲のように囲まれている」というのはそういうことです。あなたは独りではないのです。きっとあなたの抱えているその問題を、我慢できると思うのです。走るあなたは、目を上げると、ゴールが見えてきます。ゴールには、イエスが両手を広げて待っています。安心して、そこを走り抜けることができます。
両手を広げたそのイエスの掌に、釘痕が見えるでしょう。血が垂れているのが分かりますか。それが見える限り、たとえ鼻で息をする人間があなたに向けて呪いをかけたとしても、何の効力もありません。イエスが呪いを十字架によって無効にしてくれたからです。
自分のための十字架を知ったとき、あなたは決して追い詰められることがありません。逃げ場がなくなることがありません。ピンチに陥っても、最後の切り札が必ずあります。気力を失う必要はありません。弱り果てることがないからです。イエスが十字架に架かったではありませんか。もうあなたは無敵ではありませんか。ゴールに十字架のイエスが、復活の姿で待っています。このレースは、イエスの杯をプライズされる「イエス杯」です。正に十字架の杯を、あなたが受けるのです。栄光のゴールを目指すレースに、あなたはすでにエントリーされています。ためらいを覚えるあなたも、ここからまた新たに走り出すことができるのです。
そのレースには、仲間がいます。同じイエスを、イエスの救いを知る仲間が、こうして雲のようにたくさんいるのです。