出会い
ザアカイは、ひとつイエスを見てやろう、と好奇心混じりに出かけた。イエスが通りかかるぞとの街の声に、正確には何を思ったか分からない。何かこの人に出会えば、閉塞した自分の生活が、あるいは人生が、変わるかもしれない、という潜在意識がそこにあったかもしれない。
ザアカイが、どんな思いであったのか、は言い当てることができない。けれども、とにかくザアカイは、イエスに会いに出かけた。これは確かである。ところが、その後、イエスの方から、ザアカイの名を呼んだばかりか、君の家に泊まりたい、とまで言葉をかけた。イエスの方が、出会いに来た。まるで、イエスが最初から、この男に出会いたいと思っていたかのように。
メッセージの、この方向転換の視点には、ハッとさせられた。確かにそうだ。自分が神を求めて、そうして出会うという人も確かにいるだろう。だが私はそうではなかった。あることをきっかけに、自分から聖書を開いたのは事実だ。高校のときにある女性徒を通じて、学校でギデオン協会の聖書が配布されたのだが、それを上洛するときにも持っていっていたのである。西洋哲学を学ぶ身でありながら、聖書をまともに通読したことのない自分を恥じて、新約聖書を読み始めた。心が洗われるような思いを懐いたのは間違いない。だがやがて、鉄槌で頭を殴られた経験をする。私の側からは思いもよらず、神が私に手を下したのである。
それは、神が私に出会いたいという方向性の中で捉えられるのだということを、今日思い知らされた。それは大きな恵みであった。
私の場合は、イエスとの出会いは、ひたすら打ちのめされた状態から、十字架の上に引き上げられるような経験であった。ザアカイはどうだっただろう。メッセージでは、イエスとの出会いが、人を立ち上がらせることができるのだ、と告げられた。そこに救いがあったのであり、新しく生まれるという事態が起こったのである。イエスを迎え、財を献げることをザアカイは明言したが、それと新生とは、どちらが前だという論理の必要のない出来事であったはずである。「私たちの負い目を赦してください」と「私たちも赦しました」とは、どちらが前でどちらが原因だ、などということはないのと同様に。
そのメッセージで粋だと思ったのは、さあイエスがザアカイの家に泊まったときに、どんな会話があったのかは明らかにされていない、と指摘したところである。それは歴史の秘密としておいてよいのだ。問題は、いま私の家にイエスが泊まったときに、私がイエスとどのように交わったか、そこにある。尤も、ザアカイが、財産を施す宣言をしてイエスが応えたところが、その夜の話の要点であったかもしれないが、どうであれ、出会った次にどうするか、その物語は、聖書の続編としての、私の生きる道の中に書かれることになっている。
自分に対する語りかけとして、「あなたの家に泊まりたい」の言葉を聞くこと。これを説教者が語ることができるのは、説教者自身が、その声を聞いたことがあるが故であるにほかならない。このような語りができる人と、できない人とでは、本質が全く違うということに、気づかねばならない。これに気づくのは、イエスと出会ったことがある人だけである、と私は推定しているが、その辺りは、軽々しく断定はしないでおくべきであろう。