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待ち望む勇気

ゼカリヤ8:3-12 
 
美しい回復の予告です。ユダヤ人が、どれほどこれを慰めとしたことだろうか、と想像します。エルサレムは荒廃しました。敵に無惨に破壊されました。有力な民は捕囚となって連行されました。遺された者たちには、頼りになる指導者ももちません。そういう状態で、細々と生きていくよりほかありません。自治すらままならぬものだったことでしょう。
 
民族の誇りも歴史も示せない情況でした。しかし預言者ゼカリヤは、希望を掲げます。幻のようであっても、このエルサレムが立ち直る姿を描き示します。ここに主が住む。ここは真実の町となる。聖なる山に主が立つであろう。こうした預言を聞いて、人々はどう感じたでしょうか。喜ぶでしょうか。訝しく思うしかなかったでしょうか。
 
夢のようだと驚く人がいてほしいと思います。ええ、主は確かに民を救うのです。世界中どこに散っていても、民を救います。これはイエスの名のもつ意味でもありました。主は真実と正義を以て、人々の神となるのだといいます。この真実という語は、「信」を含み持つような言葉です。主が人を信頼している感覚があることに、注目しましょう。
 
新約で「信仰」をどう訳すかで、近年変化が見られました。「真実」と訳したり、イエスの方が私たちにその「真実」を尽くすというような訳し方に変えたところがあるのです。ここもその方針と関係するのでしょうか。「勇気を出せ」とは「強くあれ」という意味でもあります。聖書に限らず「勇気」というのは、実は鍵になる概念になると気づきました。
 
しかし「勇気」だなんて、実にありふれた言葉です。わざわざ注目されることもなかなかありません。今後ぜひ深く掘ってみたい言葉です。なお、「雄々しくあれ」としてもかつて知られていましたが、いまはジェンダー的に反発を買うようになりました。それで、「勇気を出せ」の訳語は、今風でとてもよいようにも聞こえます。
 
それは、受けること、与えられることの恵みをも期待していると言えるでしょう。根本的にはそういうことだと思うのです。平和の種にしても、蒔かれるのであって、人間が努力して蒔くものではありまん。地は実り、天が露を滴らせます。人はそれをただ受ければよいのです。ただ待つだけの心です。そうすることもまた、勇気なのでありましょう。

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