奉献式とキリスト
列王記上8:20-21
エルサレム神殿の奉献式と呼べばよいのでしょうか。旧約聖書前半部のハイライトです。イスラエルは、ここで前世紀を迎えました。頂点に立ちました。しばしの繁栄を見せると、残念ながら坂道を転がり落ちて行きます。奉献式のメインはソロモンの説教でした。父ダビデとの約束が、その子ソロモンにおいて達成されたことを宣言します。
その後、神への祈りでプログラムはクライマックスに達します。それから人々への祝福と戒めを以て終わります。そしていけにえです。今日注目したのは、短い箇所です。「主は約束されたことを実現された」というのは、父ダビデとの約束のことです。今こうして神殿が建ちました。イスラエルの象徴、神の住まいとして目の前に実現しました。
ソロモンは、自ら王であることを再宣言します。名実ともに、神の前で王となったのです。主の名のために神殿を建て、主の契約の箱をそこに納めました。この契約こそ、イスラエルの魂です。イスラエルの神そのものと呼んでもよいくらいの言葉です。この契約こそ、「主が先祖をエジプトの地から導き出されたとき、彼らと結ばれたもの」なのです。
この「彼ら」とは誰でしょうか。指す者が少し遠いけれども、「わが民イスラエル」でしょう。エジプトにいた民のことを直接的には指しますが、ソロモンやダビデのことも含むはずです。今ここにいる私たちをも、指し示されているし、この物語に登場しているのではないかと思います。私たちもイエスの名において、この契約を結んだのです。
イエスとの新しい契約を私たちは結びました。キリストの血の契約です。血判状どころの騒ぎではありません。正に死を以て証しとして契約です。イエスはそのために命を棄てました。人が建てた神殿は、後に破壊されてしまいます。けれども、復活のイエスの住まう永遠の神殿は、正にイエスそのものとして、死から蘇りすべての王となったのです。