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主を待ち望む者の永遠の命

ハバクク2:1-4 
 
主はなかなか答えてくれません。救ってほしいのに、主からは何の応答もないのです。こんなに世は狂っているのに、正義が果たされていないのに。でも、ハバククは主を待っています。神は必ず結果を用意してくださっている、と。思えば、クリスチャンの心境というものは、しばしばこういうものであるのかもしれません。いつまで待てばよいのか。
 
ただ、その時を用いるのは主であって、この私ではありません。だから、時を待とう。時を見張っていよう。主は、私にどう応えてくださるでしょうか。そうしていると、声があったのです。ハバククの耳に聞こえたのは、「幻を書き記せ」というものでした。板にはっきりと。一目で分かるように、走りながらでも分かるように。
 
さすがに「走りながら」では奇妙だとして、せいぜい「それを読む者が走るために」、つまり伝令が急ぐ様子を表すような訳にいま変えられていますが、どうしてどうして、この「走りながら」でも味わいがあるような気がしませんか。そういう物語があってもよいのではないか、と私は内心考えています。
 
その日は来ます。いつか知りませんが、きっと来ます。人からは「いつか」として言えないのですが、神からすれば「定めの時」であり「終わりの時」です。偽りはありません。人は待ち望むしかありません。どんなに遅いと感じようと、それは人の立場、見え方に過ぎません。遅くなっても遅れることはありません――これはなんだか妙な訳ですか。
 
人の思惑からすると遅いといえるのかもしれませんが、主の尺度からすれば、あるいはまた人の信仰的なつながりで捉えれば、ちっとも遅いということはありませんよ、と考えてみてはどうでしょう。人が定めを決めるのだ、などという態度をとることはよろしくありません。この世の暴虐に手を貸すようなことになりかねないからです。
 
世の「悪しき者」と成り果てることを警戒しましょう。自分の思いこそが正しく、神を自ら操作しようと目論んでいます。「正しき者は信仰によって生きる」という結びは有名ですが、これは主を待つこと、主とのつながりを握りしめていること、だから人の時間ではなく、神の時間を思う者にとっての、命の言葉、永遠の命となるのです。

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