もう一度終末への心を
テサロニケ二2:13-17
「あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません」の言葉を、伝道者という立場の人は、いつも心に描くものなのでしょう。自分が語った福音が留まり、生きて働いている、というのは、本当に拝みたくなるほどのありがたさなのではないでしようか。テサロニケ教会の人々は「救いの初穂」だと呼ばれていたので、なおさらです。
パウロが手ずから救いの言葉を伝え、実った魂のありかが、ここにあります。語った福音の言葉があなたがたを招き、キリストの許へと連れて行ったのです。この責任は重いものです。魂の重さがそこにかかっているのです。どうかこの言葉、この教えを「固く守り続け」てほしいものです。ここにあるのは、祈りだと言ってよいと思います。
呼びかけている相手は確かにテサロニケ教会の人々なのですが、こうして呼びかけている空間というものを感じるとすれば、そこは神に包まれている、と言うべき場なのです。パウロ本人が書いたのか、という点では、本書は疑いの眼差しが向けられています。が、キリストの弟子たちが集う教会への注意書きのやアドバイスであることは間違いありません。
内容的に決して劣るものではありません。今もって私たちの信仰の指針として読まれ、信用されているものです。教会の伝統の中で、これは伝えられてきた信仰のために相応しいと信じられたものなのです。キリストが近々再臨するに違いないという信仰が、テサロニケの第一の手紙に満ちていましたが、この第二の手紙もそれを踏襲しています。
教会のあり方や進み方を、改めてまとめたものとなっています。再臨に対するパウロ自身の切迫さは、その後薄れていったようですが、後継者は、それで消えてはならないと考えたのでしょう。終末論をもう一度表に立てる信仰の言葉が必要と考えられたのだと思います。十字架と復活で終わりなのではない、神の裁きの日が確かに来るのだ、と。
イエス・キリストと父なる神とは、少しばかり異なるスタイルであるかもしれません。でも教会の一人ひとりの「心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように」という祈りは、いまを生きる私たちへも確かに向けられており、届けられています。同じ再臨待ちの信仰が、私たちにも必要ではないでしょうか。