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ヴァニタスとしての自画像「エゴン・シーレ展」感想

9回裏サヨナラ

中学の教科書でシーレの≪ホオズキの実のある自画像≫(1912年)に出会ってから、卒論・修論をシーレで書き、ウィーンまで行ってこの絵を見た私にとって、シーレがこんなにすぐに東京に来てくれるとは思ってもいなかった。(2023年1月-4月、東京都美術館)
周りの人を誘いまくり、9回通ったシーレ展を振り返ると、6回目くらいから全く見えなかったものが見えてきた。絵の前に何回も立つことに意味があった。

齧られたりんご:第二の原罪

この絵に出会ったこと自体が、私にとって第二の原罪であったように思う。
肉が削ぎ落とされた顔は、昔シャボンの膜に例えたほど繊細な虹色をしているが、あらためて見てみると非常にマットで、彼自身の直線的なストロークの跡が残り、齧られたりんごのようだ。
シーレが齧ってしまったりんごについては、
前回の記事「小泉明郎VR『火を運ぶプロメテウス』感想」にも書いた。近代の自我=文明の火(科学→戦争)というりんごを齧り尽くした結果、人類には核が残されてしまった。

5次元:不在

7回目、8回目はタルトと一緒に観た。(タルトは4回行ったという。)

エゴン・シーレ≪自分を見つめる人II(死と男)≫1911年

7回目に気づいたが、ここには二重、三重の自画像以上のものが描かれている。手の指と指の間に、もうひとつの手が浮かび上がった。陰と陽、不在が存在を支えている。

タルトから、5次元を提唱したリサ・ランドール博士の話(私たちはシャワーカーテンに付いた水滴で、そのカーテンは5次元というバスルームにある、とする説)を聞いていたので、ドローイングを描いた。

≪5次元≫

すると、カーテンの表と裏の部分が、シーレの手とオーバーラップした。


枯れゆくひまわり、冬を越す木

「山や水・木や花の身体的な動きをとりわけ観察している。すべてが人間の身体と同様の動き、植物の歓喜や苦悩に似た揺さぶりを想起させる」
(エゴン・シーレ、フランツバウアーに宛てた手紙より、1913年)

・ゴッホのひまわりとしての頭部。 

エゴン・シーレ≪抒情詩人(自画像)≫1911年

・写真には写らないが、闇をじっと見つめると、菊を取り囲むようにアーチがあった。壁龕に提示された有限性。

エゴン・シーレ≪菊≫1910年

・6回目に、後ろの壁に引き伸ばされた白黒のポートレイトと見比べた時、この木にはつぼみが無数に付いており、光を放っていることに気づいた。

エゴン・シーレ≪吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)≫1912年


おまけ

Photo by タルト

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