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中論.第15.16.17.18章

第十五章 それ自体(自性)の考察

1.それ自体(自性)が縁と因とによって生じる事は可能ではないであろう…
因縁より生じた[それ自体]は.つくり出されたもの(所作のもの)なのであろう…
2.またどうして[それ自体]が.そもそもつくり出されたものとなるであろうか…
何となれば[それ自体]はつくり出されたものではないもの(無所作のもの)であって.また他のものに依存しないものだからである…
3.もしも[それ自体]が無いならば.どうして他のものである事が有り得ようか…
何となれば.他のものである事の[それ自体]は.他のものであるという事であるからである…だから[それ自体]という事は.この点についても成立しない…
4.さらに[それ自体]と他のものである事とを離れて.何処のもの(存在するもの)が成立し得ようか…何となれば[それ自体]や他のもので在る事が存在するからこそ.もの(存在するもの)が成立するのである…
5.有(存在するもの)がもしも成立しないならば.無もまた成立しない…何となれば有の変化する事(異相)を人々は無と呼ぶからである…
6.それ自体と他のものである事と.また有と無とを見る人々は.ブッダの教えに於ける真理を見ない…
7.カーティヤーヤナに教える経に於いて.有りと無しと言う両者が.有と無とを説き給う尊師によって論破せられた…
8.もしも本性上.或るものが有であるならば.そのものの無は有り得ないであろう…何となれば.本性の変化する事は決して成立し得ないからである…
9.物の本性が無である時.何物の変化する事があろうか…また本性が有なる時.何物の変化する事が有り得るであろうか…
10.[有り]と言うのは.常住に執着する偏見であり.[無し]と言うのは断滅を執する偏見である…故に賢者は有りと言う事と無しと言う事に執着してはならない…
11.[その本性上.存在するものは無いのではない]と言うのは常住を執する偏見である…
以前には存在したが.今は無しと言うのは断滅を執する偏見となるであろう…

第十六章 緊縛と解脱との考察

1.もしも諸々の形成されたもの(諸行)が輪廻するのであるならば.それらは常住永遠に存するものであって.輪廻しない事になる…
また無常なるものどもは輪廻しない…
衆生に関しても.この関係は同じである…
2.もしも個人存在(プドガラ)が輪廻すると言うのであるならば.五つの構成要素(五蘊).十二の領域(十二処).十八の構成要素(十八界)の内に.五種に求めるとしても.その個人存在は存在しない…何ものが輪廻するのであろうか…
3.個人存在を構成する[執着の要素]から他の[執着の要素]へと輪廻してゆく者は.神とか人間とか言う身体を持たぬものとなるであろう…
しかし身体を持たず.執着の要素を持たない如何なる者が.輪廻するのであろうか…
4.諸々の形成されたものがニルヴァーナに入るという事は決して起こり得ない…
人がニルヴァーナに入ると言う事もまた決して起こり得ない…
5.諸々の形成されたものは生滅の性を有するものであって.縛せられず.解脱しない…生あるもの(衆生)も.それと同様に縛せられず.解脱しない…
6.もしも執着の要素が束縛であるならば.執着の要素を有する[主体]は束縛されていないのである…執着の要素を有しない主体も束縛されない…しからば何に住するものが束縛されるのであろうか…
7.もしも束縛される者よりも以前に束縛があるならば.束縛は意のままに束縛するであろう… 然るに.そう言う事はない…他の事柄は.[今.現に去りつつあるもの.既に去ったもの.未だ去らないもの]の考察によって説明され終わった…
8.要するに.束縛された者は解脱する事がない…束縛されていない者も.解脱する事はない…もしも束縛された者が今.現に解脱しつつあるのであるならば.束縛と解脱とは同時であると言う事になるであろう…
9.私は執着の無い者となって.ニルヴァーナに入るであろう…私にはニルヴァーナが存するであろうと.こういう偏見を有する人には.執着と言う大きな偏見が起こる…
10.ニルヴァーナが有ると想定する事もなく.輪廻が無いと否認する事もない処では.如何なる輪廻.如何なるニルヴァーナが考えられるであろうか…

第十七章 業(カルマ)と果報との考察

1.自己を制し.他人を護り益する慈悲心は.則ち法に適った行ないであり.この世と彼の世とに於いて果報を受ける種子である…
2.行為(業)は.心の中に思う事(思業)と.心の中に思ってから表面に現わされたもの(思已業)とであると言われ.またその行為には多種類の区別があると.最高の仙人(ブッダ)によって説かれた…
3.その内で.心の中に思う事という行為(思業)は.意(心)に関するだけのものであると伝えられている…それに対して.心の中に思ってから表面に現わされた行為(思已業)と言われるものは.身体に関するもの(身業)と.言葉に関するもの(意業)とである…
4.①言葉と②身体による動作と③無表と名付けられる欲望.汚れから未だ離れていない事と④他の無表と言われる欲望.汚れから離れて居る事と…
5.また⑤善い果報の享受を齎す功徳(善行)と⑥同様に悪い報いの享受を齎す悪徳(悪行)と.さらに⑦心の内に思う事と.これらが行為を表示する七つの事柄と言われる…
6.もしもその行為(業)が.果報が熟する時に至るまで.存続して住しているならば.それは常住であると言う事になる…またもしも行為(業)が滅びてしまったならば.既に滅び終わったものが.どうして果報を生じ得るであろうか…
7.芽に始まる植物の連続が種子から現われ出て.それから更に果実が現われ出るのであれば.その連続は種子が無くては現われ出ない…
8.そうして種子から一つの植物の連続が起こり.また連続から果実が生じる…先に種子が在って.それに基づいて果実が現れるのであるから…
それ故に断絶しているのでもないし.また常住でもない…
9.その心から心の連続が現われ出て.その連続から果報が現れる…その連続は.心が無くては現われ出ない…
10.そして心から連鎖が生じ.その連続から果報が生じる…先に行為(業)が在って.それに基づいて果報が生じるのであるから.断絶でもなく.常住でもない…
11.10の白く浄らかな行為の路(白業道)が法に適った行ないを成立させる手段である…この世とかの世とに於ける法に適った行ないの果報は.五つの欲楽である…
12.もしもこの分別が為されるならば.多くの大なる過失が存するであろう…それ故にこの分別は.この点に関しては可能ではない…
13.然るに.諸々のブッダ.独りで悟りをを啓く人々(独覚).教えを忠実に実践する人々(声聞)が褒め讃えられ.そうしてこの場合に適合するこの見解を.私は説くであろう…
14.行為の影響を持ち続ける.輪廻の主体(不失法)は債券のようなものであり.業は負債のようなものである…その不失法は領域(界)に関して言えば四種類で欲界.色界.無色界.無漏界に渡っている..
また本性に関して言えば無記で.善でもなく.悪でもない…
15.これは.見道の位に於いて断滅される(見道処断)の断について言えば.四つの真理(四諦)を観察する段階(見道)に於いて断ぜられるものではなくて.見道のあと.幾度も反復.修習する段階(修道)に於いて断ぜられるものである…それ故に不失法によって諸々の業の果報が生ずるのである…
16.もしも不失法が.見道処断のものとして断ぜられるのであるならば.或いは業が他の人に転移する事によって断ぜられるのであるならば.業の破壊などの過失が付随して起こる事になるであろう…
17.そうして心から個人存在の連続が起こり.また個人存在の連続から果報の生起が有り.果報は業に基づいているから.断でもなく.また常でもない…(法有の立場に立つ人々は.この様に主張して[非常非断]という仏教の根本的立場を守ろうとしているのである)
18.然るに.この不失法という原理(ダルマ)は.現在に於いて二種類ある全ての業の一つ一つに付いて一つ一つ生じる…そうして果報の熟した時にも.なお存続している…
19.その不失法は.果報の享受を超え終わってから修道で.或いは死んだ後で滅びる…そのうちで煩悩のない(無漏)ものは無漏として.また煩悩のある(有漏)ものは有漏として.区別を示すであろう…
20.仏によって説かれた.業が消失しないと言う原理は空であって.しかも断絶ではなく.輪廻であって而も常住ではない…(法有の立場に立つ人々の主張である)
❲龍樹の反駁❳
21.何故に業は生じないのであるか…それは本質を持たないもの(無自性)であるからである…またそれが不生であるが故に(生じたものではないから).滅失する事はない…
22.もしも業が.それ自体として(自性上)存在するならば疑いもなく常住であろう.また業は造られたものでは無い事になるであろう…何となれば常住なるものは造られる事が無いからである…
23.もしも業が造られたものでないならば.人は自分が為さなかった事についても報いを受ける事になるであろう…またその説に於いては.清浄な行ないを実行しないでも.その果報が得られるという欠点が付随して起こる事となる…
24.そうだとすると一切の世の中の活動と矛盾する事になる事は疑いない.また善をなした人と悪をなした人との区別が立てられない事となる…
25.もしも業は確立しているものであるから.それ自体の本体のあるものであると言うならば.既に果報が熟し報いを受け終わった業が更に再び熟して.果報を受けると言う事になるであろう…
26.そうして.この業は煩悩を本質としているものであり.そうして諸々の煩悩は本性の上では存在しない(空である)…もしもそれらの煩悩が本性の上では存在しないのであるならば.どうして業が本性の上で存在するであろうか…27.業と諸々の煩悩とは.諸々の身体の生ずる為の縁であると説かれている…もしも業と諸々の煩悩とが空であるならば.身体に関して何を説く要があろうか…
28.生存せる者(衆生)は無知(無明)に覆われ.妄執(渇愛)に結ばれ.束縛されている…彼は業の報いを享受する者である…彼は行為主体(業を造る人)と異なっているのでもないし.またそれと同一人なのでもない…
29.この業は縁から生起したものではないし.また縁から生起したのではないものでもない… 
それに行為主体(業を造る者)もまた存在しない…
30.もしも業が存在せず.行為主体(業を造る者)もまた存在しないのであるならば.業から生ずる報いは.何処に存在するであろうか…また報いが存在しないのであるから.報いを享受する者が何処に存在するであろうか…
31.教主(ブッダ)が神通を具えているので.神通で現出された人(変化人)を造り出し.その造り出された変化人が.更にまた他の変化人を造り出すように…
32.その様に行為主体(業を造る者)は変化人の形を持っている…造り出された如何なる業も.変化人によって造り出された他の変化人のようなものである…
33.諸々の煩悩も.諸々の業も.諸々の身体も.また行為主体(業を造る者)も.果報も.全ては蜃気楼のような形のものであり.陽炎や夢に似ている…

第十八章 アートマンの考察

1.もしも我(アートマン)が.五つの構成要素(五蘊)であるならば.我は生と滅とを有するであろう…
もしも我が.五つの構成要素(五蘊)と異なるならば.我は五蘊の相を持たぬであろう…
2.我(アートマン)が無いときに.どうして[我が物](アートマンに属するもの)が在るだろうか…
我と[我が物]とが静まる故に.我が物という観念を離れ.自我意識を離れる事となる…
3.我が物と言う観念を離れ.自我意識を離れたものなるものは存在しない…
我が物と言う観念を離れ.自我意識を離れたものなるものを見る者は.実は見ないのである…4.内面的にも外面的にも.[これは我れのものである]とか[これは我れである]とか言う観念の滅びたときに執着は留められ.それが滅びた事から生が滅びる事となる…
5.業と煩悩とが滅びて無くなるから解脱がある..
業と煩悩とは分別思考から起こる…
処でそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる…しかし戯論は空に於いては滅びる…
6.諸々のブッダは[我(アートマン)が有る]と仮説し.[無我(アナートマン)である]とも説き.また[アートマンなるものは無く.無我なるものも無い]とも説いた…❲中間派には定説と言うものが無い❳
7.心の境地が滅した時には.言語の対象も無くなる…真理は不生不滅であり.実にニルヴァーナの如くである…
8.[一切はその様に真実である].また[一切はその様に真実では無い].[一切はその様に真実であるのではないし.またその様に真実で無いのではない]…これが諸々のブッダの教えである…
9.他のものによって知られるのではなく.寂静で.戯言によって戯言される事なく.分別を離れ.異なったものではない…
これが真理の特質(実相)である…
10.Aに縁って(Aを原因として).Bが成り立つのであるならば.実にBはAではない(AとBとは同一ではない)…またBはAと異なるのでも無い…それ故に原因は断絶するのでも無く.また常恒に存在するのでもない…
11.諸々の事物の真の本性は同一のものでもなく.異なった別のものでもなく.断絶するのでもなく.常恒に存在するのでもない…
これが世の人々の主である諸々のブッダの甘露な教えである…


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