五集合要素(五蘊)
仏教では.先ず.自分が[世界]だと認識しているものは.五つの要素の集まり(五蘊)による精神作用に他ならないと気付く処から.始まるといえるのです…
それは汎ゆる現象を刺激として各感覚器官で感受した時に生じさせるスカ(快感.喜び.多幸感など)もドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦.心痛.悩み.憂い.悔い.哀しみ.不満.不安.弱さ.脆さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.欲望.無常さ…)も、を突き詰めてゆけば五つの要素の集まり(五蘊)による精神作用に過ぎないと気付く為でもあるのです…
それは瞑想にしても輪廻の理解にしても.三宝印にしても四聖諦や縁起(因果律)の理解にしても五集合要素(五蘊)という精神作用の感覚.感情.記憶.認識.理解.心象.意志.衝動.主観.意識をベースに成り立っているからに他ならず.科学や医学の進歩が著しい昨今に於いては尚更であり.如何に高度の瞑想.三宝印.四聖諦.因果律(縁起)にしても本質的にはドゥッカに他ならないのですから…
それは仏の教え[仏教]も世間でいう処の宗教という部類に括られ妄想的.迷信的.観念的な幼稚で盲目的な空論の部類のものと捉えられ.DNAやRNAなど遺伝子が.心.意識.思考.想念.衝動.性向.業を含めた自分という存在を形成している全てであるかのように誤解.錯覚.勘違いしている事に起因しているからだと言え.現象による刺激情報に対して五蘊をグルグルと回転させ.欲望や短命で一時的な少しばかりのスカのために.大きなドゥッカを造り出してゆく愚かさからの解脱なのです…
つまりは想念の受滅(想受滅)とは.五蘊という精神作用により生じる[意識]を.必要もないものでも.下らないものでも.どうでもいいものでも.つまらないものでも.表の脳域で思考を加えて.アレコレ.ゴチャゴチャと回転させる愚かさから解放された平安の中に堅固な安らぎと歓びと悦楽と静逸な幸福が存在することを発見することなのですから…
仏教では.DNAやRNAは色蘊(ルーパ=身体.記憶の残滓)の継続性であり.業(カルマ).性向(性根).意志.想念などの心的エネルギーとの結合により生命を形成すると考えるのです…
色を観ずれば聚沫の如し
感受は水上の泡の如し
想は春時の陽炎の如し
諸行は芭蕉の如し
諸々の識は幻の如し
物質(色蘊)は無常であり
感覚(受蘊)は無常であり
識別(想蘊)は無常であり
意志(行蘊)は無常であり
意識(識蘊)は無常である…
物質(色蘊)は苦であり.
感覚(受蘊)は苦であり.
識別(想蘊)は苦であり.
意志(行蘊)は苦であり.
意識(識蘊)は苦である…
物質(色蘊)は無我であり.
感覚(受蘊)は無我であり.
識別(想蘊)は無我であり.
意志(行蘊)は無我であり.
意識(識蘊)は無我である…
物質(色蘊)は空であり.
感覚(受蘊)は空であり.
識別(想蘊)は空であり.
意志(行蘊)は空であり.
意識(識蘊)は空である…
このようにして意識(主観)に執着せず.厭い離れれば貪欲から離れ.貪欲を離れれば解き放たれるのです…
人は脳域(思考域)で考え.物事を行なっていると錯覚したり.また主宰的な魂や霊魂などの意志により行なっていると誤解していますが.そのどちらも正しいとは言えず.実は五つの要素の集り(五蘊)という精神作用により生じた意識(主観)が脳域(思考域)に伝えられ.あれこれと思考を加えたものを[自分の想い]だと認識しているのです…
そしてその[自分の想い]が潜在意識に伝えられ、次の精神作用へと連鎖してゆく現象的なものなのです…
◆五蘊(ごうん)と言う五つの要素の蘊まり(五集合要素)を明確に理解する事が仏道に於ける世俗諦へと至る重要な修養法であると言え、固定的な実相としての自分など存在しない事が理解出来れば、自我に翻弄され.囚われ.拘る自分が脱落して行くのです…
◆認識過程的構造とそのカラクリ
人は五つの要素の集まり(五蘊)を条件として色(物質.身体.感覚器官)は形成され五感管(眼鼻耳舌身)を条件として感受(感覚)が生起し…感受(感覚)を条件として想(記憶)が生起し…
想(記憶)を条件として行(衝動.業)が生起し…
行(感情.衝動.業)を条件として識(意識.概念)が生起し…
識(意識.概念)を条件として表層思考が生起する…
◆主観
右も左も解らない人に正しい方向を指し示すのが有学(三蔵経典)であり.知識.情報.記憶の次元を超越した無情報.無知識.無記憶の思惟により真実(真理)を見い出し理解してゆく道が無学の階梯であり.無学に入りては無記なる至上の聖典[自燈明経][法燈明経]の二巻を携え自分を習い学び.天地自然の理法(自然法則)を習い学ぶものであり文字経典は脇経に過ぎない事を識り.実践の中に目覚め(覚醒)乗り越え(超越)捨て去り(捨離)解き放たれ(解放)自由を得て解脱し.涅槃(ニルヴァーナ)に至るのが世俗諦だと言っても過言ではないでしょう…
因みに勝儀諦(真諦)とは釈迦尊(ブッダ)が慈悲の心で積極的・具体的には説かれなかったこの大宇宙の摂理(プロビデンス)をも理解した如来蔵を言うのです…
自分(私)とは無我なる存在であり.無我とは,固定的.実相的な存在ではない現象としての存在である…
私とは五つの要素の集まり(五蘊)でありその五つの要素が集まって結合して働く時、私という感覚.記憶.感情.意識を形成するのです…
つまりは五集合要素の機能(五蘊機能)による作用(精神作用)として.一つの想念としての意識(潜在概念)をその都度に結んでいるだけであり自分(主宰的実体.魂)の想念.意識(潜在概念)ではないのであり.それは移り行く時間と移り行く空間との暫定的な出会いによる現象に対する自分と言う五集合要素の感受機能による感覚を.記憶情報により識別し.意志表象機能による感情を.想念.意識(潜在概念)として生じさせたものを.表層思考域に伝えているだけの五つの要素の集り(五蘊)の機能としての感覚であり.記憶であり.感情であり.意識であり.魂(心の中に主宰的.指導的な魂.霊魂.霊体があるという錯覚)に根差す固定的.実体的.主宰的な自分(私)の感覚.記憶.感情.意識ではなく.五集合要素(五蘊)の機能と外部刺激.内部刺激との接触を条件として生じる.一つの感覚であり.一つの記憶であり.一つの感情であり.一つの意識だという自覚が必要なのです…
五集合要素(色.受.想.行.識)という物質的要素と精神作用の全てを無常であると観じ.空であると観じ.非我(無我)であると観じ.囚われ.拘り.執着する価値のないものであると観じ.無知.無明の闇を乗り越えて超越し.盲目状態から目覚めて覚醒し.五受蘊の束縛から解き放たれ解放される…
◆雑阿含経・サンユッタ.ニッカーヤ
五蘊(色受想行識)の色を観ずれば聚沫の如し…受は水上の泡沫の如し…想は春頃の霞の如し…行は陽炎の如し…識法は幻の如しと観ぜよ…
※即ち物質的要素も感覚的要素も心的要素も.五蘊作用(精神作用)も全て泡沫.霞.陽炎.幻のようなものであり.一つとして実相的で確実なものではないのに.執着(愛着)してしまい固定的実体として永遠に存続する事を妄想するから.それらの変化生滅に思い通りにならないドゥッカ(苦悩.苦痛.悩み.不満.儚さ.空しさ.脆さ.弱さ.不完全さ.不安定さ.惨めさ.哀しさなど)を生じさせるのです…
故に諸行は無常であり.故に諸法は無我であり.故に一切は皆苦なのであり.それらから目覚め覚醒し.乗り越え超越し解き放たれ解放された境地(涅槃.ニルヴァーナ)は寂静なのです五集合要素(五蘊)とはその字の如く五つの要素(色受想行識)の集まり(蘊まり)であり.私とは即ち五つの要素の蘊まり(集まり)であって固定的な実体ではなく無我な仮体なのです…
色(物質の蘊まり)=受(感受機能の蘊まり)=想(記憶,知識,情報,経験の蘊まり)=行(カルマ(業).アーサバー(汚穢).性質などの形成要素の蘊まり)=意識(潜在概念・潜在意識の蘊まり)であり.無我で無常で空なる人間の本質を言い得た[結べば柴の庵にて.解くれば元の野原なりけり…]という一句の如き身なのです…
毒矢の喩えで説かれるようにこの五集合要素がどうして結合したのか?.どういう性質のものか?を探求する事ではなく.五集合要素という集まり(蘊)により刺激.情報の感受により記憶.情報.経験などにより何かしらの感覚を生じさせ.性質.業.精神性などにより何かしらの感情を生じさせ.意識.概念を生じさせている心に気付き.分析し.思惟し.理解し.叡智に基づいて執着から離れてゆく実践的なプロセスが修養であり.否定とか肯定という断片的な見解により迷いを深めてゆく道ではなく.真実を把握し理解してゆく道が仏道なのです…
●ドゥッカ(苦.痛み…)とは.執着の五集合要素(五蘊)であると言えるのです…
条件により生起するものは.条件により変化し消滅する性質のものであるのです…
故にこの世界に於いての条件により生起しているものは全てドゥッカなのです…
全ては移ろいゆく我れと.移ろいゆく時空との縁起の中での出逢いであり暫定的な出来事でしかないものを.その様に観じ.理解できないからドゥッカ(苦痛)が姿を現すのです…
◆五つの集合要素(五蘊)
(1) 物質(色蘊)の要素の集まり
外界の物質と相対する身体の物質的要素
◯固体.液体.熱.空間.運動.代謝とその派生物(五感官・各器官)
[自分]を分析すると.物質的な姿.形が見つかります…
[自分という物体][自分という存在][自分の体]に執着する…
[身体のお陰で楽しい.身体こそ大切だ]と勘違いし.身体の為に食事をし.身体の為に体を洗い.お洒落し着飾り.住家.見栄.体裁.高慢.比較.承認と身体の奴隷状態となるのです…
しかし身体とは生きている間中.垢.汗.唾.粘液.大便.小便など汚物を排泄しながら.死んだら死骸となり腐敗し土へと戻るものであり.毎日.代謝により身体を補修し続けながら生きているのであり.身体はずっと滅しては新たに生じ変化してゆく物質であってそこには、私.私たるもの.私という実体など無いのです…
(2) 感受・感覚(受蘊)の要素の集まり
感覚は流れ続け.変化し生滅し続け.そこには[本来の私]という主宰的な魂.霊魂などの要素は存在しません…
五感官(眼耳鼻舌身)による外世界との接触と.肉体的.心的な接触によって感受する快.不快.そのどちらでもない感覚の全てが含まれる…
【六種の感覚】
①眼が.色.形との接触による感覚 ⇒視覚
②耳が.音との接触による感覚 ⇒聴覚
③鼻が.匂いとの接触による感覚 ⇒臭覚
④舌が.味との接触による感覚 ⇒味覚
⑤身体が.物との接触による感覚 ⇒触覚
⑥心が感知対象との接触による感覚⇒第六感(心象)
※感知対象(思い.記憶.知識.経験など)
私たちの肉体的.心的なすべての感覚は.この中に含まれます…
感受するものは刺激であり.痛みだけなのです…負担量の問題
[快.楽]とは痛みの刺激の負担量が減ることにより感受する感覚であり本質的には[痛み]に他ならないのです…
快.楽とは苦.痛みを前提条件として現れる感覚に過ぎないのであり.その負担量が増えて苦痛と感じる処からがドゥッカ(苦)なのです…
六機能(六根)を制御コントロールし.感覚的な快楽が無常で空な本質のものである事を理解し.感覚への執着を乗り越える(超越)
(3)識別.表象(想蘊)の要素の集まり
感受した感覚を感知するのは想蘊です…
人.物.現象などを記憶の残滓,知識,経験などにより判別.再認識.確認できる要素(脳的機能)です…
想蘊は頭の中で煩悩(存在欲)に促されずっと妄想して流れていて.想蘊の妄想により自我意識を深め[私だ]と自我に固執するのです…
自我の妄想により仲間割れ.争い.破壊.敵愾対象など比較.優等劣を識別をする…
※人々に調和をもたらす妄想など無いことを理解しなければなりません…
想い出.記憶⇒想い(記憶の残滓)⇒想蘊により妄想の流れを造り続け深めてドゥッカ(苦.痛み)を造り出すのです…
[私]への執着[自我意識]という偏った(バイアス)認識を蓄積させている…
[私の感覚]と[私の感覚による感情]が常ならざる無常なものであり空しく儚く短命なものであると明確に理解できれば感覚とそれによる感情(主に不善処)に捉われなくなります…
主観的な認識で構築されてしまっている想蘊(認識:表象)を客観的な理解:認識:記憶へ入れ替えてゆく…
(4)意図・衝動(行蘊)の要素の集まり
潜在意識
善悪に関わらず全ての意図的行為が含まれる.
業(カルマ)とは意志があって身と口と心で成される行為であり.意志がない行為は業(カルマ)を造らないのです…
感覚(受蘊)と識別(想蘊)による心の働きは意図的行為ではないので.感覚(受蘊)と識別(想蘊)は業(カルマ)の結果を形成しません…
精神性(質.格.境地.器量)の性質による注意力.意志.信念.自信.集中力.叡智.エネルギー.欲望,嫌悪,憎しみ,無知(無明).自惚れ.感情.自我意識といった意図的行為だけが業(カルマ)の結果を形成する…
これらが意志(行蘊)という集合要素を構成しています… 業=形成力
〇心の中には[何かしたい][何かしなくちゃ]という衝動が常にあり.頭を空っぽにすることが不得手で出来ず.いつもゴチャゴチャと雑念していて.単純な物事をどんどん複雑にしてゆき.それらに過剰な意味付けをして執着するのです…
前の状態の消滅が.次の[何かしたい][何かしなくちゃ]という衝動のエネルギーを生じさせ.[行かなくちゃ][帰らなくちゃ][休まなくちゃ][寝なくちゃ]などと.どんどん変化しながら流れて行き.踏み止まる事が出来ないのです…
しかしそこには[私]という実体はありません…二つの連続する時間を通じて.同一で在り続けるものは何一つとしてないのです…
●想蘊の主観的な記憶,経験,知識などに基づいた偏見,先入観,常識,固定観念,自我意識など偏ったサンカーラ(業,精神性)と言う性質により形成される衝動により潜在意識(概念,想念,心象)を結ぶ…
(5)意識.概念(識蘊)の要素の集まり
意識は六つの機能(眼耳鼻舌身心)のうち.どれか一つを基礎として対応する六つの外的.内的対象(視覚.聴覚.臭覚.味覚.触覚.心的対象)のどれか一つに対する反応.返答であり.意識は他の機能と関連しています…
こうして意識(識蘊)も.感覚(受蘊)識別(想蘊)意志(行蘊)と同じく内的機能と対応する外的対象によってそれぞれが形成されます…
意識(識蘊)は対象の存在を感知しているだけであり.対象を認知しない…(認知しているのは識別作用です)
〇意識は条件から生起し.条件のない処に意識は生起しない…
意識とは五集合要素の機能により生起しているのであり.心の奥に.主宰的な実体(魂.霊魂.霊体)が意識を生じさせる訳ではないのです…
※外から内へと向かう依存関係の縁起の流れにより.五つの要素が蘊まり(集まり)機能するとき物事は在るがままの存在として現れるが.内部刺激(渇望)による五集合要素の依存関係の逆転した流れによる縁起が内から外へと機能すると自我や実存的な存在を錯覚したり妄想してしまうのです…
※これら五集合要素(五蘊)の内の.心的意図(生き.存在し続け.増大し.表現しようとする意志)による善悪の行為.執着.渇望などが、存在と継続の根源となり連鎖を生み出すのですが、それに付いては別章にて解説させて頂きます…〇識蘊とは頭が識別する事ではなく.心が認識することです…
心が働くためには受蘊と想蘊が必要で.そこには必ず行蘊の意志(精神性・業カルマ)の形成力によって造り出されます…
生じた意識に過去の記憶.見解.観念などを加えながらグルグルと五蘊を回転させて潜在概念を形成させます…
その潜在概念(意識)を表層の思考域に伝え.表層の思考域において言語化し思考を加えて新たな見解を持つのです
〇私たちは五つの集合要素に[これこそが自分だ][これこそが自分の考えだ]と執着して限りない苦しみを作り出しているのですが、私とは何ものなのかさえ解らない無知(無明)な状態で.業(カルマ)を深め精神性を育成することもない行蘊による意識は.煩悩(存在欲)に基づいた感覚的で主観的な偏り(バイアス)により.妄想を深め所有の次元の事物に魅入られ.決して満たされる事のない欲望(渇望)の中を生きてゆく事となるのです
〇自分が不満の中に居たり貧困に喘いでいては真に他人に慈悲を施すことなど出来ない。真に慈悲を施すには先ず自分が満たされて居なければなりません…
満たされた心で.こよなき幸せを実感する為には.精神性を育成し悪業(カルマ)を蓄積(形成)しないようにしなければなりません…
●精神性の育成
〇人としての質(クオリティー)を高めよう
〇人としての格(レベル)を磨こう
〇人としての境地(ステージ)を深めよう
〇人としての器量(イデア)を広げよう
それには所有の次元の事物への執着の本質的な不安定さ、空しさ、儚さ、無常さ、無価値さなどを明確に理解することなのです…