「最後に一緒になりたい人を心に描く時、その人といるときに得る感情を心に描きます」
最後に一緒になりたい人を心に描こうと思うと、具体的な人を思い浮かべる。
そしてそこから思うのは、「その人といるときに得る感情」だな。
職業とか外見は、仲良くなってしまってからは気にならない。
職業とか役職という肩書きは、きっと距離を縮める前にアリかナシか判断しているはず。
外見もそうだ。生理的に受け付けないとか、直観的に合わないなと思わなければ、アリ、もしくはナシではないと判断しているはず。
高飛車な感じに聞こえてしまっているだろうか。
一緒になりたい人かどうかを、初対面で意識的に判断しているわけではない。
何とも思わない人から「ちょっと気になるかも」という人まで、程度の差こそあれ、意識的や無意識のうちに判断しているんだと思う。
それに、見た目が好みであっても、「だから好き」「付き合いたい」とはならない。
好みやタイミングが合って、付き合い始めて仲良くなっていくと、最初は「楽しい」「もっと知りたい」という感情が前面に出るけど、だんだん落ち着いてくると、「癒される」「落ち着く」という感情を感じることが多くなって、「ずっと一緒にいたい」となっていく。
私の場合は、初期の頃はケンカをたくさんしてしまうけど、そういうしんどい時期を乗り越えて、私の取り扱い方にも精通して、余裕を持って寄り添ってくれる人に対して感じる安心感が好き。
他愛もない会話をしてる時に、ちょっと話が噛み合わなくなって、どっちかが勘違いしてることに気づいて、ツッコんで笑い合う感じも好きだ。
自分のコンプレックスや言いにくい悩みを勇気を持って打ち明けて、それに同情するわけでも慰めるわけでもなく、ただただ聴いて、受け止めてくれる安心感も感じられる人がいい。
相手の尊敬するところを感じられる話を聞いているのも好きだ。「素敵な人を好きになった」と思える自分が好きなのかもしれない。
仕事や趣味の話を楽しそうに話してくれる感じも好きだ。
私が独自の感覚で話すのを、おもしろがって笑いながら聴いてくれる感じも好き。
2人の間で定着したノリで話すのも好きだ。
最初に、「最後に一緒になりたい人を心に描こうと思うと、具体的な人を思い浮かべる。」と書いたけど、素直に言うと、具体的な人は1人というわけではないことに気づいた。
昔の人を思い浮かべてしまっていることもある。
比べるのは失礼だし、自分が比べられるのも嫌。
いや、もし比べられて私が勝つならいいんだけど、「ここは前の人がよかったな」と思われるのはもちろんいい気はしない。
完璧な人はいないから、比べて優劣つけるのは間違ってるし、「もっといい人がいるはずだ。」と思うのも間違いだと知っている。
何でもかんでも自分にとって都合のいい人を選ぼうとしても幸せになれるはずはない。
それなのに、こんな思考を披露してしまった。
テイラー・スイフトは純粋な思いで言った言葉で、そこに共感したはずなんだけど、気づけばなぜかこんな内容に…。
幸せになろう。
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