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「人々から愛されるように生きるべきではないのだろうか」
少なからぬ人々は、
他人からほめられようと思っている。
人から感心されたいと思っている。
さらに卑しいことには、
偉大な人物だとか、
尊敬すべき人間だと見られたがっている。
それはちがうのではないか。
人々から愛されるように
生きるべきではないのだろうか。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
(オーストリアの哲学者)
かっこつけずに正直に打ち明けると、
褒められたい。
感心されたい。
すごい人だと思われたい。
尊敬されたい。
自分がそれに値する人間だと思いたい。
こういう願望は誰でも持っていると思うし、間違った願望ではないと思う。
でもそれよりも、周りの人から愛されることの方が尊いし、喜びが深いし、幸せになれるんだろうなとは思う。
愛されるって、望めば必ず手に入ることではないし、何かひとつ与えたらすぐに何か手に入るわけではない。
だから、愛されようと思うと、見せかけの優しさや見返りを求めた貢献では通用しない。
「褒められたい」とか「感心されたい」という願望を満たすために、相手が喜ぶことをしたり、誰かが困っている時に手を差し伸べたりということを日頃からずっと継続的にやっていると、褒められたり感心されたりするだけじゃなくて、感謝され、そこに必要な存在になる。
Win-Winの関係ってことかな。
でも、何事も度を越すのは良くなくて、「すごいと思われたい」とか「尊敬されたい」という願望を満たそうとすると、Win-Winの関係ではなくなるし、疎まれてしまうことも増える。
そういう願望って、隠しても相手に伝わると思う。
「すごい」「さすが」と言われると気分良くしているけど、他の人が言われていると不機嫌になったり、言ってもらいたい時に言われないと変なアピールをしてきたりするから。
恋人や家族から愛し愛されるのも気遣いや愛情が必要だけど、職場の人や友人たちから愛し愛されることだって努力しないと手に入らない。
いろんな人から可愛がられてなつかれている、人たらしに憧れる。
そのためには、「自分が、自分が」とならずに、自分から相手を愛していかないといけないんだろうな。
エーリッヒ・フロム著の『愛するということ』、まだ全然読めていない。
帯に書いていた「愛することは技術だ」という言葉が気になっている。
本当に技術なのであれば、努力もしやすくなる。
自分なりに愛して、あとは相手の反応に委ねるしかないのではなく、磨くべき技術があるのであれば、磨いていきたい。