「美しさとは、心の持ち方。『私は愛される価値がある』と信じること。」
下着ブランド「ビクトリアズ・シークレット」モデルで、まぶしい笑顔が印象的なミランダ・カーに言われたら説得力があります。
「私は愛されている」
「私を愛してくれる人がいる」
「私も愛される価値がある」
こんなふうに思えると、幸せだし、気持ちにゆとりも生まれる。
愛されていることが実感できると、自分の悪いところもコンプレックスもひっくるめて、自分のことが好きになれる。
他の人にも優しくなれるし、すべてがきらきら輝いて見える。
こんな心境になれば、自然と目元が下がり、口角は上がる。
笑顔でいる人は美しい。
私は結婚したことがないし、当然ながら自分の子どももいないので、まだ知らない世界がある。だから、「もっと素敵な愛され方があるよ」という方もいると思うけど、今の私が知ってる感覚を表現してみたい。
悲しいことに、親兄弟がいれば「愛されている」というわけでもないし、どうやら、結婚しても、必ずしも「愛されている」と実感できるわけでもないらしい。
私は、20代までは家族仲は悪くないと思っていたし、多少の不満を感じることもあったけど、親に大事にされていると感じながら過ごせていた。「私は人から愛されて育った」と思えていた。
でも、周りが結婚の話まで出るようになっても、私はなかなか恋人ができなかったので、「いつになったら私のことを好きになってくれる家族以外の人が現れるんだろう」「私は誰からも愛される魅力がないのかな」と思っていた。
付き合ったことのない年数が長くなればなるほど、どんどん恥ずかしさが増していって、いい感じになる人がいても、自分で壁を作って拒絶していた。
そんな私にも素敵な出会いがあって、素敵な恋愛をした。
いい歳してほとんど恋愛経験がなかった私の愛情表現はとても幼稚で、喧嘩と仲直りを繰り返してばかりだった。私は「好きならこうあるべきだ」という自分の理想を押し付けて、思い通りにならないと怒り、冷静になっては落ち込み、相手にはかなりの負担をかけていた。
私のせいで迷惑をかけてばかりだったのに、「好きだから何でもおもしろい」と言ってくれたり、「恋愛に慣れてる人なんていない。その人との恋愛は初めてなんだから」と、いつも私の想像をはるかに超えた言葉をかけて、私を安心させてくれた。
この人とは、結婚という縁はなく、お別れすることにはなった。
でも、今でも仲良くしてもらっている。
思い出や感動は数えきれないくらいたくさんあるけど、それを披露するのは趣旨からそれてしまうので、この辺でおしまい。
とにかく、この人との出会いで、「私も誰かに愛してもらえるんだ」「私も愛される価値がある人間なんだ」と自信が持てるようになった。自分のことが好きになった。自分も知らなかった自分にも出会えた。
この人とお別れするとき、私は「またこんなに愛してくれる人なんて現れるのかな。こんなに理解してくれる人なんて他にいるのかな」と弱音をこぼした。すると、「現れるよ。誤解されやすいだろうけど、ちゃんと理解してもらえるし、うまくいくと思う」と言ってくれた。
「まぁ、おれほどの男は現れないと思うけど」と冗談で言ってたけど、困ったことに、本当にそうなんだよなぁ。異性としても、人としても深く理解し合える人はまだ現れておりません。「どうしてくれるんだ」と、たまにふざけて責めたりしてます。
でも、お別れしたことに後悔はないし、やっぱり出会えた奇跡に心から感謝している。
この人と出会えたことで、私の人生はその時からずっと意味のあるものだし、肯定できる。こういう出会いは、結婚している人も含め、誰にでも訪れるものではないとも思う。出会えた私は幸せ者だと思う。
「じゃあ、この人と結婚できたらもっと幸せだったか?」と考えると、それは違うんだろうなと思う。もちろん、そうしたいと願っていた時期もあったけど、結婚というところまで距離を縮めてしまうと、きっとお互い無理があったと思う。
この人からは与えてもらえてばっかりなので、私も何か返したり与えたりしたいと思っているけど、やっぱりもらう方が大きい。縁のあるかぎり、私もこの人に幸せを感じてもらいたい。
また話がそれていきそうなので、この辺でおしまい。