「クリスマスとは、普段よりもう少し誰かのために何かしてあげること」
この名言は、スヌーピーの生みの親であるチャールズ・シュルツ氏の言葉だそうです。
キリスト教徒が多くない日本でも、クリスマスは大きなイベント。
ショッピングモールには大きなクリスマスツリーが飾られ、小さなショップにも各家庭にも大なり小なりクリスマスツリーが飾られることが多い。
イルミネーションがいたるところに出現して、それを見る人で街がさらに賑わいを見せる。
街中でもテレビCMでも、鈴の音が特徴的なクリスマスソングがたくさん流れるようになる。クリスマスをテーマにした映画も流されるようになる。
子を持つ親たちは、クリスマスプレゼントをどうしようか考えたり情報交換したりする。子どもたちもプレゼントに何がもらえるか心を躍らせる。
クリスマスイブに向けて、街にはカップルが増えていって、手をつないで幸せそうな雰囲気にあふれている。
キリスト教信者でなくても、クリスマスはやっぱりどこかワクワクした気持ちになる。
こういうところは、みんな同じように盛り上がるのかなと思うけど、実際のキリスト教信者には、もう少し深い何かがあるような気がしている。
日本人にはない何か。(毎回きっちり書くと読みにくいので、この記事でいう「日本人」は、キリスト教信者以外の日本人のことです。)
「愛」とか「許す」とか「誠実さ」とか、そういう内面的な思いがとても強くなる感じ。
日本人にそういう心が欠けていると非難したいわけではなくて、彼らは「クリスマスだから特別」という感覚が強い印象を受ける。
日本人が年越しを理由に心機一転させるのと同じような感じかな。
映画を観て持った印象だから、実際とは違うのかもしれない。
でも、私の好きなクリスマス映画でいえば、『クリスマス・キャロル』では「クリスマスだから借金もチャラにする」という気前のいい人がいたし、『ラブ・アクチュアリー』では「クリスマスだから打ち明ける」と、秘め続けないといけない想いを告白するシーンがあった。
この「クリスマスだから」というセリフが、昔から妙に印象に残っている。
海外では「クリスマスだから」という理由だけでそんな大胆なことができるんだとカルチャーショックを受けた記憶がある。
私のカルチャーショックが的外れなところもあるかもしれないし、映画だから大げさなところはあるとはいえ、「クリスマスだから」というのが実際に根付いているからこそのストーリーなのかなと思う。
シュルツ氏は、「もう少し、追加で、他の人に何かする」と言っている。
これって自分に余裕がないとなかなかできない。
人間って、意識しないとわがままな生き物で、自分さえよければいいと思ってしまうものだと思う。
でも、人間は共感できる生き物でもある。「かわいそうだな」「助けてあげたいな」と思える気持ちがある。
ただ、日本は恥文化だからか、電車で席を譲るとか、重たい荷物を持っている高齢者に声をかけるというのをためらってしまう。
それを「クリスマスだから」という理由で声をかけられるようになるのは、いい言い訳だなと思う。
今年のクリスマス、私は誰かに何か幸せをあげられるかな。
「クリスマス」というと、25日じゃなくて24日のクリスマス・イブがメインという空気が強いけどね。
今年のクリスマスは10年に1度レベルの最強寒波が来るらしいけど、小田和正さんの「クリスマスの約束」でも観ながら、あったかくして過ごそう。
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