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「幸せっていうのは、今の自分の力でできる事をやり遂げた時に感じる」
幸せっていうのは、今の自分の力でできる事をやり遂げた時に感じるのであって、自分には到底無理な事を追い求めようとするから、不幸だと感じる人が多いんじゃないか
浅田次郎(小説家)
年代によって多少解釈の仕方が変わるかもしれないけど、実現可能性のあることを追い求める方が、私も幸せだと思う。
若い時は、無理難題にも立ち向かい、がむしゃらに上を目指すのもある程度は必要なのかなと思う。
でも努力にも限界があるし、できる範囲でやって、幸せを感じる方がいいんじゃないかなと思う。
それに、私の経験上、身の丈に合った環境に身を置くことが幸せだと思う。
周りのレベルが高すぎると、無理なことを追い求める状況にならざるを得なくなり、幸せを感じにくくなる。
中学校までは学区内の普通の学校に通っていたので、周りのレベルは高くなかった。
でも、高校はちょっとした進学校に行った。
中学までは特別な勉強をしなくてもトップクラスの成績が出るのが当たり前だったので、高校では50位以内に入れないのが当たり前になって驚いた。
50位までは成績が職員室前の廊下に貼り出されるので、誰がトップ50の常連かどうかはみんなが知ることができた。
だから、人柄もあるけど、優秀な人が人気者になる傾向があった。
その時に、不幸までは感じないものの、劣等感を抱いた。
それで、普通ならできるだけ高いところを選ぶんだろうけど、のびのびと過ごしたかったので、大学は自分の偏差値より少し低いところを選んだ。
そのおかげで、実際にのびのびできた。
ただ、居心地は良かったけど、これが自分にとって良かったのかどうかは別かもしれない。
その後、就職ではなく、実は大学院に進んだ。
研究者を育てるようなレベルの大学ではなく、私自身の卒論も読書感想文レベルで、研究が何たるかを分かっていないのに、である。
どうしてもこれを研究したいという熱い思いがあったわけでもなく、研究室の選び方も知らず、ゼミの先生に相談するという知恵すらなかったのに、名だたる院をいくつか受けた。
土台がないのに、3分の2は合格してしまうという快挙だった。
その中で、いちばん有名なところを選んで進学した。
そして、待っていたのは挫折だった。
周りのレベルの高さが尋常じゃなかった。
最初は「何かの間違いかもしれないけど、こんなすごいところに合格させてもらったんだし、頑張ろう!」と努力した。
でも、無理なものは無理だった。
途中からは、在籍してるだけで行かなくなった。
他の研究科からも引かれるほど人間関係もひどい環境で、幸せの真逆にいた。
(仕事をしながら大学院に通われているnoterさんたちの記事を読んでいると、こんな浅はかな理由で進学した自分が情けない…)
仕事をしてからも、周りのレベルは大事だなと実感している。
最初の会社はちょうどよくて、気の合う人が多かった。
今の会社は、逸材が集まる部署に入れられたことがあり、ある日、急に心が動かなくなるのを感じて、「このままでは潰れてしまう」と思い、異動願いを出して、聞き入れてもらえた。
今の部署は、またちょうどよいレベルで、割と気楽に過ごせている。
「いい大学」「いい会社」に入る方が、いわゆる人生の勝ち組なんだろうけど、人によっては必ずしもそうじゃないと思う。
あくまで私の経験上だけど、「今の自分の力でできる」環境に身を置くことが、幸せでいられる秘訣なのかなと思う。