「グチは一度目は聞いてあげよう。二度目は話題を変えてあげよう。」
かっこいい話の聴き方だなと思う。
頼りたくなるし、惚れてしまう考え方だ。
実際、こういう話の聴き方ができる人には、なついてしまっている。
愚痴を言うことについては賛否両論ある。
「愚痴を言うのは時間の無駄」という考えと、「ストレスをため込まずに愚痴を言って発散した方がいい」という考え。
私は不満を感じやすくて、愚痴を言いたくなることが多い。
言える相手がいたら愚痴を言ってしまうんだけど、「愚痴はよくない」と我慢したり、「やっぱりストレスをため込むのもよくない」と愚痴を言ったりと、自分の中での軸が定まらずにいる。
愚痴を言うにしても、「愚痴を愚痴っぽく言わない」とか「面白おかしく言う」というのを心がけたいとは思うけど、感情が高ぶっていると、そこまで考える余裕はない。
愚痴の賛否については、自分の中でどう処理するのがいいかまだ決めかねているけど、この言葉で、愚痴を聞かされる側の気持ちを考えるきっかけになった。
私も愚痴を聞くことはある。
自分も同じ不満を抱えているのであれば、一緒になって愚痴を言って盛り上がる。
でも、自分が知らない人や知らない会社の愚痴を延々と聞かされるのは、共感できるところがないと、つまらなくて苦痛に感じることもある。
愚痴を言っている人の考え方がおかしいと感じ始めると、さらに苦痛に変わってしまう。
それがもともとそこまで親しくないだと、だんだん話を聞くのが嫌になってくる。
そう思うのは、もちろん私の愚痴を聞かされる相手も同じ。
私のストレスが発散できても、相手にストレスを与えてしまう。
そんなこと、私はまったく望んでいない。
思い返せば、私が頼ってよく愚痴を聞いてもらっている人は、最初は私の話を聞いてくれているけど、本人のストレスになる前に、うまく話をそらしてくれているんだろうな。
私を無下に突き放さず、たまに話を聞いてくれる。
その人の努力や工夫に助けてもらっているってことだな。
感謝してもしきれない。
書いていて気づいたけど、仮に愚痴を言うのはいいとしても、相手に自分の不満をすべて共感させようとしてはいけないということ。
愚痴を聞いている方は、最初は「うんうん、分かるよ」という反応しかできないと思う。特に相手が女性だと、いきなり「それはあなたが間違ってる」とか「こうしてみたら?」という反応は望まれていない。
それに対して愚痴を言う方は、共感してもらえると思ってしまい、それが気分良くて、「やっぱり私は間違っていない」「もっと聞いてもらいたい」という気持ちがエスカレートしてしまう。
私も、相手を信頼していればいるほど、相手を尊敬していればいるほど、「この人にこそ分かってもらいたい」という思いが強くなって、歯止めが効かなくなる。
これは大いに反省しないといけない。
身近な人にストレスを与えたくなくて、noteに発散するようにしている。
まだカッコつけてしまうことがあって、本当の愚痴になってないことが多いけど。
不満を面白おかしく表現できたり、カッコつけたままストレスを発散できるようになるといいな。
noteでそういうふうに言葉にしていくうちに、考え方も変化していけたら理想的だなぁ。