ありがとう の反対は…
最近、感謝ワークというものを教えていただき、実践している。
「今日の感謝」
と題して、思いつくことを書いている。
書いていると言っても、感謝ワークのグループLINEに ぺとっ と貼り付けるのだが。
三日坊主もひれ伏すほどの飽き性の私が、
(不調の日や忙しすぎた日などは除き)
1ヶ月半も続いていて、さらに飽きていないポイントはここだ。
グループLINE。
人の感謝エピソードが見られる。
それにリアクションをそっと押す😍👍🙏
それも楽しみの一つ。
しかし、人のものが見られるということは、当然ながら自分のものも人に見られる。
最初の頃は他の人も見るものだからと、私なりにかしこまっていた。
誰から何をもらった。感謝。
こんなことがあって喜ばれた。感謝。
こんな具合に、目に見えたものだけを書いていた。
続けていくにつれて、私の中に変化が現れた。
目に見えるものに感謝をしていたら、
次第に【過去の自分】や【過去の失敗】にも感謝の念があふれるようになってきた。
今や病気や不調に対しても感謝できるほどになってきた。笑
人間はよくも悪くも
慣れることができる生き物で、
最初は抵抗があったことでも、続けるにつれて普通になってくる。
当たり前になってくる。
また、その逆も然り で、
嬉しかったことも、回を重ねると慣れてくる。
当たり前になってくる。
慣れ とはすごいもので、
感謝ワークが楽しくなった私は
日常で起こったことへの感謝や 心で感じ取った事柄への感謝を探すのが楽しくなっている。
おそらく、慣れることで感謝できることの幅が広がり、
またセンサーが研ぎ澄まされ、感謝の感度が上がったのだと思う。
先日こんなことがあった。
体調不良で会社を早退した。
たくさんの人が気遣ってくれてとてもありがたかった。
その翌日、
【本当に優しい人たちばかりで、この会社に来れてありがたい】
と言った私に対し、ベテラン社員がこう言った。
【みんな優しくないよー!特に男性は…!】
思わず否定して反論しそうになったが、やめておいた。
この会社では
不調の人に嫌な顔を向けず、
段取りをつけて優しく追い返すのがどうやら普通らしい。
なんと良い会社か。
私は《感謝すること》に慣れた事で
感じた感謝を恥ずかしげもなく口にすることができるようになり、
ベテラン社員は《この環境》に慣れたことで
それが当たり前のこととして見えなくなり、他の不満がクローズアップされた…のかも知れない。
同じ《慣れる》でも
ベクトルが少し違うだけで
こうも幸福度が変わるものなのか…
と感動した。
ありがとう の元の形は、
ありがたし。
有り難し。
存在することが難しいこと。
なかなかないこと。
だから《感謝》の言葉となるのである。
当然、その反対側には
《当たり前》
が存在するだろう。
当たり前 当然 絶対
世の中には《絶対》は、実はそう多くない。
明日も絶対に周りの人が優しいとは限らない。
明日絶対雨がふらない保証はないし、
明日も絶対に健康でいられるかどうかはわからない。
唯一あるとすれば
《生まれたらいつか死ぬ》
絶対と言えることはそんなことぐらいだろう。
ほぼ唯一の《当たり前》を畏怖し、
その他の《有り難し》なものを当然と感じてしまうのは
幸せなことであると同時に
その幸せの上にあぐらをかく行為ではないだろうか。
私はこれからも、
感謝する心に慣れたまま
人生を送ろう。
そうすることで、私は世にも幸せな婆さんになれるだろう。
そんなことを夢想している。
今日も《ありがとう》を見つける心を育てよう。
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