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【無料】あと266日(たぶん):もしあの時

 はじめは漫才師になろうとした。大学に通いながら京都のインディーズお笑い団体で初めて一般のお客様の前で漫才をやった。大学を中退して本気でプロになろうとbaseよしもとのオーディションを受けるようになる。3回目の挑戦のときだったか、「これは!」と思う漫才のシステムを思いついた。そのネタで初めて300組中の上位5組に入ることができた。初めて手応えを感じることができたネタだった。いよいよ劇場メンバー入りできそうになったそのタイミングで相方が音信不通となり、そのまま解散した。
 もしあの時、そのまま次の月も劇場オーディションを受けられていたらたぶん数回の間に通過できた気がする。そこから劇場メンバーと入れ替え戦を戦う日々が始まっただろうたぶん最初のうちは上位に入ることはできず真ん中からやや下でギリギリ残留、たまには降格したと思う。その都度、やり方を変えていって、3年くらい経てば、真ん中のランクにまでは上がれていたはず。少しずつ劇場でも認知されるようになってきて、もしかしたらトップクラスにまで昇格できたかもしれない。たぶん24歳とか25歳くらいか。深夜番組にちょろっと出たり、先輩方のイベントにちょっと出たり、M-1は当時でいうと3回戦くらいまではいけるけど、準決勝への壁は高かっただろうと思う。25歳から30歳までの5年間、バイトをしながら漫才を続ける。M-1の準決勝に行けたらめちゃくちゃ嬉しかっただろう。でも決勝にいけるだけの実力はないと自分で理解していたはず。何か賞レースの決勝にいけないかな、とか思っていたはず。その中のどれかが叶っていたら、まだもう少し続けようと思っていたはず。どれもが叶っていなかったら30歳くらいで解散して、別のコンビを組み直したかもしれないし、もしかしたらもう辞めたかもしれない。辞めたとしたら次は何をしただろうか。10年くらい続けただろうバイトの店の社員になるという可能性もあるけど、たぶん自分の場合は劇場のスタッフとかになろうとしたのかな。東京に出てきて、一から相方を探してオーディションを受けたりしたかもしれない。そうなったら、またそこから10年くらいは頑張ることになるから、バイトをしながらライブに出続けて40歳くらいになっていたか。

 結果的にはあのタイミングで漫才師を辞めることになってよかった。あのルートを進んでも自分の才能や運だったら辿りつけなかったところに、落語家になったおかげで辿りつけていると思う。


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