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『ぷるぷるの夜』 NHK新人落語大賞 受賞に寄せて 全文掲載

『ぷるぷるの夜』

 NHK新人落語大賞を受賞することができた。

 やりたいことに対して素直に向き合い続けてきた結果、気付けば従来の落語家像の外側を歩きがちな十数年だった。枠からはみ出た活動スタイルは当然ながら大多数との差別化に繋がり、そのことで声がかかった仕事や出会えた人は多い。一方で、伝統芸能でもあるこの世界においてそういう道を歩むということで自ずと手放さざるを得ないものもあって、その一つには『NHK新人落語大賞』も含まれていた。伝統あるこの大会において、多様性の担保、つまりは賑やかしとして本選に出られる日が来たとしても、そこで自分が大賞を獲れることはまずないだろうと決めつけていた。落語道のまん真ん中を歩いている方が受賞するべき賞だと他ならぬ自分自身がそう思っていた。だからまさか自分の落語人生がNHK新人落語大賞を受賞する世界線につながっているとは想像していなかった。時にこんな思いがけないご褒美をもらえるから、またこれからも頑張ろうと思える。

 2021年の初夏。七月・東京ソーゾーシー、八月・渋谷らくごしゃべっちゃいなよ、九月・ソーゾーシー全国ツアーと、同時期に三席のネタ下ろしを控えていた僕は、仕事が終わるとその足で作業場へ行き、夜な夜なああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返しながら、朝がくる少し前に這いつくばるように帰宅する、そんな毎日過ごしていた。どうやら形になりそうと浮かんできたギミックは「川渡り問題」「内宇宙・外宇宙」「唇ぷるぷる」の三本で、そのうち一番調整に手がかかりそうな「内宇宙・外宇宙」を最後に控えている九月に回して、「川渡り問題」「唇ぷるぷる」を東京ソーゾーシーと渋谷らくごに回すことにした。
 結果的に、「川渡り問題」は『床女坊』というネタに仕上がり、この年の渋谷らくご創作大賞 受賞作に、「唇ぷるぷる」は『ぷるぷる』と結実して、こうしてNHK新人落語大賞を受賞するに至った。こう書くと、この年の夏は僕の創作人生において一つの到達点のように思えるが、もちろんそんなことはなくて、『佑脳佐脳』というネタになった「内宇宙・外宇宙」は思うようにコンセプトを演芸に落とし込めず、ツアー初日でやってすぐに「これはダメだ」と判断してボツにした。急遽引き出しから引っ張りだしてきた「伝言ゲーム」をネタ化した『はぁはぁ』は、作っている最中からこれは二ツ目中期の勝負ネタ『一人相撲』を劣化させただけのものだなと分かる始末で、そんな不甲斐ないネタを引っさげて全国各地を回るのは、共演者にもお客様にも申し訳なくて堪えた。『ぷるぷる』でツアーを回れたらどれだけ良かったか。でもそれは結果論で、こんな風にネタ作りを始めて二十年近くになる今でも凡人の僕は、一喜一憂を、反省と修正を、繰り返しながら何とかすがりつくように面白いと思ってもらえるネタを作るためにもがいている。

 『ぷるぷる』の夜。
 それは、まだ前座だった確か2011年の1月のこと。理屈が勝ち過ぎる傾向にある自分の作風は、演芸としての射程がどうしても限られるからそこに身体性を加えるべきかも、というような話を芸人を辞めて大阪に帰ってしまった友達に電話で相談していた時のこと。あの夜に「例えば一生分の舌打ちを一席の中でやってしまう、みたいなそんなことはできないかな?」と閃いた。それはスムーズに『舌打たず』というネタに育ち、前座の後半から二ツ目初期の勝負ネタになってくれた。それ以外に「唇を震わせながら喋る」→のちの『ぷるぷる』、「小さい声で喋る」→のちの『伊賀一景』と、あの時自分の弱点を補うための「身体性」について考えた夜が、こうして十年近く経ってようやくネタとして結実した。もちろんあの夜に絞り出したいくつかのギミックはまだ引き出しでその出番を待っている。

 『ぷるぷる』の夜。
 それは三ヶ月連続ネタ下ろしが迫り来るなか、連載原稿の締め切りに追われていた2021年6月末のこと。朝までに送る必要がある連載原稿を必死で書き上げて、送信する前にもう一度読み返そう、その前に頭をリフレッシュしようと、部屋をうろうろしながら暇つぶしに唇をぷるぷるさせたときのこと。唇を震わせながら「疲れたなぁ」と喋ってみたら、案外喋れることを発見した。二、三言喋ってみて「ひょっとしたらこれで会話ができるかも」と思えた。そこからは五十音を、日常会話を、落語のフレーズを、とにかくぷるぷる喋ってみて、これは聴きやすい、これは聴き取りづらいとリスト化していった。

 『ぷるぷる』の夜。
 それは「今年は梅雨がないなぁ」と他愛もない話を友達としていた2021年7月上旬のこと。武蔵境駅前のスタバでテイクアウトしたコーヒー片手にロータリーで、聴き取りやすいと判断したぷるぷる語を友達に聞いてもらっては「ギリギリわかる」「ちょっとわかりづらい」「よくわかる」と客観的に仕分けしてもらった。その時はまだぷるぷるする理由を松やに設定でいくか、水中設定でいくか、で悩んでいた。
 水中で喋ろうとするから「ぷるぷる」している設定。それは例えば水中忠臣蔵。討ち入りに向かった吉良邸が水中要塞と化していた「おのれ吉良、水中に屋敷を隠すとは・・・!」、大きく息を吸って水中吉良邸へ突撃する大石。以降、「吉良はどこだ~!!!」というような怒声が、全部ぷるぷるするというネタ展開や、佳境で何度も息継ぎしに浮上する、という設定は馬鹿馬鹿しくて好みだったけど、最終的にはシンプルに松やにを採用した。

 『ぷるぷる』の夜。
 それは七月ソーゾーシーの前日。ドキュメンタリー上映後のトークショーが終わって、ソーゾーシーみんなで山手線に乗っていた時のこと。「明日のネタはどうですか?」と鯉八兄さんに聞かれて、「唇を震わせながら喋るのが、自分でやっていると面白く感じるんですけど、これが果たしてお客様が面白がってくださるかわからなくて」と返した。川渡り問題の方のアイデアも話してみて、やっぱりこっちの方が手堅く面白がってもらえそうだと思ったから、どうしても勝ちたかった渋谷らくごしゃべっちゃいなよに川渡り問題を回して、明日のソーゾーシーは松やにで行くことに決めた。

 『ぷるぷる』の夜。
 それはネタ下ろしした時のこと。いつもの自分のネタ下ろし同様、途中途中の通過点や、このフレーズは言いたいというチェックポイントのようなものだけ携えて、いざ高座へ。出たとこ勝負で言葉を紡いでいくのはいつものやり方。冒頭のぷるぷるパートを経て、丁寧に状況説明をしたあとの「そうです」「そうですじゃないよ!」のシステムが発動するクダリで、「ドカン!!」と大爆笑が起こった。どうやらこのネタは自分だけじゃなくて、普遍的に面白がってもらえるんだとお墨付きをもらえた瞬間だった。


 十八歳の頃から続けているネタ作りの日々は気付けばもう二十年近くになるか。作業場での夜は相変わらずしんどいことの方が多くて、五時間考えて一つの設定すら浮かばなかったときの、あの無力感、自分の才能の無さに辟易する感じ。少し白みがかってきた青梅街道を自転車に乗って家に帰るときいつも引っかかる八丁の交差点で、この時間に眠っていたらどれだけ体調を整えられただろうか、古典落語の稽古をしていればどれだけ上達できただろうか、などと戻ってこない時間を惜しんでしまうあの数分。でもそんな生き方を選んだのは自分なのだからやるしかないよなと慰めにもならないありきたりなことを思って玄関の鍵を開ける。寝室に入る。ほとんど入れ違いのように妻は出社のために起きて支度を始める。微睡みの中で「いってらっしゃい」も言わずに、ラジオをかけながら気づいたら寝ている。そんな夜の終わりを、朝の始まりを、これからも過ごしていくのだろう。
 それがしたくて落語家になったのだ。

NHK新人落語大賞 受賞に寄せて
立川吉笑

(2022年11月23日 書き下ろし)


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