4/27 ほどのよく
久しぶりに落語会があって、途中休憩を5分ほど挟んで独りで100分近くしゃべり続けた。お席亭に場を用意していただいたわけで、高座の機会の減っている昨今ではとても有り難いことでした。しかし舞台用の大き目の声で喋る頻度が極端に減ったからか、以前よりも喉が気になってしまう。身体の部位は好調であるときは意識に登らず不調のときにこそ意識されるように、です。
ある意味では発声のみで成立しているこのパフォーマンスにあっては、喉の状態がすべてともいえてしまう。もちろん(もちろん、とことわるのは、文のうえである一つの特性を抜き出して書くとそれがすべてだというふうに見えてしまうから)それだけでなく、あらゆること乃至技術の総体が芸になるのですが、裏を返せば喉の状態が最高だったらそれだけで凄みを誇示してしまうことが可能になります。それは別によいのですが、声というものに大部分を預ける身としては“うしろめたさ”を感じてしまうのです。
不要不急のものの自粛ということが相変わらず言われています。これは妙な話ですが、生命維持に直結しないことは実施を見送ることのお願いされているわけです。
人は時間の中を生きているゆえ、動くものであります。ウイルスも時間の中の存在だから、動くものである。なので人間の時間を停止させることで、ウイルスが動きようもなくなり、結果滅亡に導くことができるという措置です。
これがどれほど現実的に可能なのかわかりませんが、不要不急の行事等は限りなく遅延され、そのまま落とし穴に落下してしまったものもありました。しかし、社会生活の維持のために必要なものであれば、存続は許されるという。
芸人であることは、各種の“うしろめたさ”に常に睨まれていることでもあります。そもそも維持されなければならない社会生活は、この睨む視点の側であり、このように視線を送る(まなざす)ことと視線を受ける(まなざされる)ことは不離の関係です。この関係性は、既に社会生活の中に組み込まれていて、そこを切り離すことはできない。その意味で、必要なある人々がいる。
さて噺家は、世の中にはあってもなくてもいい仕事がある一方で「なくてもなくてもいい仕事」と自らを表現します。〈有〉or〈無〉ではなく、〈無〉かつ〈無〉です。これでは文として意味をなさないからそれ自体成立していないのですが、そのように語る噺家自身が高座の上にまず鎮座している。この矛盾=自己否定のダイナミズムは、あらゆる矛盾を体現しながら生きるすべての人間とまったく変わるところがありません。(これを徹底して遡れば、人間が存在していることがひとつの矛盾(奇跡)であるとわかります)
「不要不急」という言葉に思いを馳せるとき、「要」であり「急」であることを吟味するよりも「不」の語の重なりに人間存在の本質的なあり方について考えてしまいます。