毎日マクラ「ね」☆猫☆
猫の写真をツイッターにあげてる人、いますよね。ほっこりしますよね。まさか猫に脅かされるかもしれない、とは、まったくもって思わないですよね。
猫はね、いとおしいですね。端的にかわいいですね。かわいくない猫というものは考えにくいです。猫であることがかわいいのだから、かわいくないということが許されていない状態です。
猫だって、たまにはかわいくなくなりたいときがあると思うんです。それで、かわいくないスタンスでかわいくない顔をしたりするでしょう。
それでも、人間はその意図を無視して「かわいいなあ」って思いますよね。
このあたり、猫権を蹂躙しているんですよ。
猫という存在と、とにかく向き合わなくてはならない。
猫を擬人化して、この人間世界に引きずりこんで、そこで愛を注ぐのは、何かがおかしい。何かが食い違っている気がする。
この食い違いは、表面上は見えないんです。あくまでも、うまくいっているように見える。猫的にみても完璧な世界だと。
でもですよ、これは人間の世界の話です。猫の世界の話ではないんです。
人間は猫を飼い馴らしていると思い込んでいますが、それは本当でしょうか。
これは、何が言いたいのかというと、逆に人間が猫によって飼い馴らされている、猫に操られているんだとか、そういうことではないんです。
人と猫がすれ違っているんです。人と猫は、和解していないんですよ。
人と猫が直接向かい合っていると思い込んでいる限りは、これを乗り越えられない。
もう、何が言いたいんだと、そろそろイライラしてきたと、そんな状態になっていることと思います。
人間が真に猫と限りなく接近するために、何をなしたら良いか。
それはひとつしかありません。キャットフードを食べることです。
キャットフードを口にしてこそ、人は猫的になれるんです。
ネズミを捕まえたりすると、なおよいと思いますが、そこまでしなくても大丈夫です。
キャットフードを食べさえすれば。簡単なことです。
これは、猫になりたいと思うのが真っ当な猫好きだという確信から出発した意見です。
魚の干物とか、猫が好きそうなものでいいじゃないか、人はそう思うかもしれません。
でも、それじゃあダメなんです。人として、人が猫のために創造した食べ物を口にすることが、何にも代えがたい猫的経験になるんです。
私たちが猫の写真を撮るとき、そこにその猫は写っていません。それは、理想の猫化した私自身の写真です。
現実に存在している実際の猫でなく、概念としての猫です。光としての猫です。
もし猫を理解してしまったら、私たちは大切な何かを失くしてしまうと思います。
猫はつねに私たちの脇を擦り抜けていきます。
猫は、あなたがかわいがらなくっても、猫であり続けていくでしょう。あなたが抱きしめられない、絶対に入っていけないその部分こそ、猫がいる場所です。