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日記

もう7月も終わりますね。

毎日少しずつ、制作をやっています。最近は大きなキャンバスをどーーんと張って、気合が入っていて、お仕事帰りに毎日コツコツ制作を進める日々です。
毎日コツコツしていたのが関係あるのか無いのかはわからないけど、昨日、とうとう寝坊して会社に遅刻しました。
言い訳ができないほどの清々しい寝坊でした。時計を見ると出社時刻の10分前。起床、絶望、呂律が回っていない電話を経て、超早送りで支度して、職場に着きました。かわいい先輩が、「ワープしたら間に合ったね」と笑ってくれました。もしかしたら、先輩はワープを習得しているのかもしれない。いったい全体いつの間に、ワープの技術は民衆化されていたのか?とか、そんなことはともかく、恥ずかし〜と思いながら午前中を過ごしました。

その日は、なぜか帰ってきてからもずっと寝てしまったので、24時間のうち13時間くらい寝ていました。しかも日付が変わってからも朝までしっかり眠っていました。

ちょっと調子がはみ出し気味ですが、制作に気合が入っているのも、お知らせをしたい気持ちが早まっているからかもしれません。
そのお知らせはまだまだ先のお話なのですが、その時には、見てほしい人たちに、見てもらえたらいいな。

以下最近の気づきのお話です。


🦑🦑🦑


制作とイラストを分けて考えられるタイプなので、お仕事としてイラストを描く機会が、ちょびちょびある。色彩構成的な要素は自分の中にはほとんど無かったのだけど、デジ絵を描くことはとても勉強になる。実は私も同年代の多くの絵描きと同じように、お絵描きBBS〜pixiv出身者なのです。だから、デジタルイラストの感覚は割と掴めているつもりだったのだけど、久々にやると、改めて難しい。マチエールとか質感とか大きさとかなく、対象をそのままに、バチっとキマる色面を作る特訓だと思うと難しく、楽しくもある。アニメ塗りの試行錯誤を通して、やっぱ湯浅政明すごいな〜とか思ったりしている。

仕事で動物や自然物のポップなイラストを描くことを通して、絵を描くことが変容のプロセスだという側面が、わかりやすく実感として理解されてきた。

描いたものが自分を写す鏡である、という側面が、作られたものに含まれうる以上、かたつむりを描くために、私は「かたつむりになったつもり」になっているのかもしれない。他者としてかたつむりの絵を描くのではなく、描かれた瞬間に、絵の中のかたつむりになる。これを変容と呼ぶのだな、とわかった。

そして変容には技術がいるのかもしれないと思った。ここでの技術は、模倣の技術では無い。もっと別の形をした「変容の技術」だと思う。多分…。
模倣では無い技術。それをどう示せばよいのかわからないけど、かたつむりを描くときにはかたつむりに、うさぎを描くときはうさぎに「なりきって描く」ことだと思った。

その場合、わたしは「かたつむりに生まれてよかったな」と思いたい。うさぎになりきって、「うさぎに生まれてよかったな」「かたつむりに生まれてよかったな」と思いたい、と思いながら描いている、ということに気付いた。「かたつむりに生まれてよかったな」は、あくまで、わたしがそうしたいと思う、変容の素朴なケースの一つにすぎないのだけど。

もっとも、本物の、個々のかたつむりたちがどう思っているのかも知らないが、絵の中の、わたしが描いたかたつむりのイラストレーションには、「かたつむりに生まれてよかった」と思っていてほしい。お仕事のイラストを描きながら、そんなことを考えるのでした。

(描きたいものと制作者は相互に成長/生成変化していくもので、製作者ではなく、作品自身が変容していく場合もある。画面が変容するのか、作者が変容するのか、どちらもの場合もある。)


おまけ。
かたつむりの(?)合唱曲です。やなせたかしの詩がやさしいね。

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