6月の思ったこと
最近人と話すときに、「信じる/信じない」について尋ねることが多かった。
考えるきっかけは、自分がよく言われてきたからだ。大学のとき自分は、人から「真っ直ぐだね」とか「信じているものがありそう」と言われることが多かった。特に意味はないんだろうけど、妙な引っ掛かりを覚え、「それはどういう意味で言ってますか、誰を、何を?」と、よく思ったりした。
会社に入って、「人の言うことを鵜呑みにしてはいけない」と言うことをまざまざと思い返した。美大生だったわたしは、アホだから人の言うことをすぐ信じていた。仕事は間違いがある前提で動くし、イタズラとか冗談も飛び交う。そうだった、自分の判断しか頼れないんだった。よーし、ちゃんとしよ〜!って前向きに思えるようになりました。
大学にいた間は、ここから出た後のことなんて何も想像できなかった。本当に想像できなかった。バイトしたりボランティアしたり、外と関わることは割としていた方だけど、「美大生」という認識がいつもあったので、自他ともに認識はそこにぴったりと収まっていた。毎日楽しくて仕方なかったし、そういう意味では「この感覚がずっと続くこと」を信じていたのかもしれない。それは真っ直ぐだと言われても仕方ない。
実際は今も同じ街に住んでるし、結局大学の時の人たちと繋がってるし、意識以外あまり変わっていない。でも意識だけがすごく変わった。
大学院まで居たから、自分の美術の実践はほとんど学校で行われるものだった。ま、でもそれだけではなく、普通にpixivとかお絵かき掲示板に絵を投稿したりしてたわけだし、小学生の頃には自分で少女漫画を描いて、毎月ちゃんと発行したりしていたことを思い出した。(黒歴史だ!)
これまで自分が一生懸命学んできた、いわゆるファインアートと全然違う仕事に就いて、色んな職業の人たちが働いていることを間近でたくさん見て、社会がどういうふうに動いているのか、今すごくリアルに感じている。そのおかげで、これまで取り組んできたアカデミックな「美術」について、少し距離を置いて、落ち着いて見ることができるようになった。
そこで勉強したことが自分にとってすごく大切なものだし、アーカイブされてきたことのありがたさはすごく感じている。
一方で、外に出ることで、そこではないところでもまた、人が色々なことを考えていることを知った。考えているのは、本当に本当に当たり前だけど、ものを作ったり、アカデミックに勉強している人たちだけではないのだ。そういう当たり前のことに気づいて、すごく視野が狭かったんだ、ごめんなさい、と言いたくなりました。
当然職場では誰もわたしを「若い作家」みたいに扱わないし、「油画やってたの?ふ〜ん、なんか一枚ちょうだいよ〜」みたいなことも、向こうは別に本気で思ってないんだと気づいて、軽く流せるようになった(あくまで私はね)。
それに、「普通の」「一般的な」人なんて社会のどこにも居ないんだということも、よくよく、よ〜〜くわかった。みんなどこかしら人間らしさを抱えながら、それでも毎日仕事だから、しゃんとして働いている。「しゃんと」した部分を仕事に割り当てて、そうではないところを、ちゃんとお家で過ごしているんだろう。ヘンだということにあぐらをかかずに、別に隠しもしない大人たち。それができることの健康さったらない。
社会はものすごく大きいんだね。毎日毎日、なにかが動いている。自分のいたところがどんなに小さいところだったかを、はじめ、痛いほど思い知った。今は少し慣れてきた。
最近はとにかく、やったことないことに出会っている。今まで学んできたことなんて全然通用しなくて、体に染み付いた反射神経で働いている感じがする。毎日頭が沸騰しながら過ごしてるけど、ちょっとずつ制作もしているよ!
ボイスとパレルモ見に行ったり、良い本に出会ったり、色々していることもあるんだけど、気がついたら6月も半ばに差し掛かっていた。「思った」の話をしたので、次は「調べた」とか「考えた」の文章を書けたらと思います。
追記:
>一方で、外に出ることで、そこではないところでもまた、人が色々なことを考えていることを知った。考えているのは、本当に本当に当たり前だけど、ものを作ったり、アカデミックに勉強している人たちだけではないのだ。そういう当たり前のことに気づいて、すごく視野が狭かったんだ、ごめんなさい、と言いたくなりました。
この部分について、自分で書いておきながら、引っ掛かりを感じたので、追記することにしました。「考えている」というのは、すごくざっくりとした言葉すぎて、語弊がありました。よくない書き方だったと思います。
ある事柄や、物事について、それを見る人は言葉にしないだけで、ものすごく色々なことを感じ取っているんだ、ということを実感しています。
そこに込められた意味は深読みされるし、自分の思ったことを、何かを媒介にして、できるだけ正確に伝えようとすると、ちゃんと伝わるんだ、ということがわかったのです。特権化された単語を使ったり、難しく文章にしないだけで、感じているものは同じなのかもしれない。
言葉にしないだけで、何でもかんでも伝わるし、バレるんだ。それは受け手だってわかってるんだ。と言うことを信じられるようになった、とでも書くべきだったかもしれません。