第18話 芸能のルーツ?・高砂編(2014年11月)
●2014年の冬は暖冬で、季節は気まぐれに移ろうとか? (´_`。)
そんな事が囁かれるこの頃ですが、皆さま、いかがおすごしでしょうか。
まいどの、山野亜紀でございます・・・さてさて実はなんですが★
・・・先日facebookを通して、とある能楽師の方と知り合いました。
あるイベントに誘われたんですが、たまたまその会のゲストが宝生流の方だというので、参加する気になった訳です。 (^▽^;)
私こと山野亜紀の母親の具合がおよろしくなく、実家の事業を(東京都は、小金井市★)に移しました。
この前の事務所というのは以前は、東京ドームのお膝元、水道橋にありました。
住所は、文京区になりまして、本郷の一丁目です。
●当時、新築の「宝生ハイツというマンションの一室」に、亡き父が事務所を移したのが、1979年の事です。 👀
引っ越しを手伝った私はまだ、小学生でした。 (^^;;
・・・写真を見れば判りますが、写真左下の部分が能楽堂の入り口で、マンションの住人は坂を少し上って、別の階段から建物に入るという構造です。
今にして思えば、能楽堂を併設しているという大変に不思議な構造(!)だと思うのですが★
当時から、「これは、そういう建物なんだ」と思うばかりで、自分が能楽堂に毎日通っているとは、意識していませんでした。( ̄_ ̄ i)
●・・・こういう建物ですから、毎年お正月には入口に立派な門松が立ち(!)
年中「万作の会」やら「狂言の会」といった札が立ちますが、私はいつも素通りでした★ 😅💦
・・・小学5年生から、中学・高校ときて、専門学校時代まで「実家の会社のアルバイト」を私は続け、20歳で父親が亡くなった時には、当時勤めていた会社から実家の会社に転職★
その後は、母の具合が思わしくなくなって来てしまったので、思い切って水道橋から実家に会社を移転(!)
それまで、このマンションにはウン十ウン年通い続けていたんですが、ここ能楽堂でお能を見たのって、実は1度きり・・・★
それも、宝生会さんのご厚意で戴いた券で、ホントにたった1回見たきりだったんでした。 <(_ _)>
●さて能楽が侍に愛されていた芸術なのは、皆さまもご存知の通り。
その歴史は古く、2014年9月のエッセイにも、ちらっと書いているんですが★
そもそもは、何でもアジアからシルクロードを通って伝わった、散楽(さんがく)というのが、能楽のルーツなんだそう。 (゜-゜)
これは、滑稽なモノマネや寸劇に曲芸、奇術や軽業(かるわざ)、幻術なんかを見せる大衆芸能(!)だったそう。
・・・これは奈良時代には宮中で守られるようになり、散楽戸(さんがくこ)という組織にまでなりますが、何故だか廃止の憂き目に遭い(!)
芸人達は、ちりぢりに分かれて行ったんだそうです・・・★ (>_<)
●これが平安に入って、散って行った芸人たちの芸と、土着の芸が混じり合って、また別の形へと変わっていきます♡
その一つが「猿楽」と呼ばれるモノになっていき、これが能楽の母体なんだとか★ 👀
・・・とにかく日本は農業の国でしたから、農耕行事からまた田楽という芸能が盛んに。
猿楽・田楽も共に、「能と呼ばれる歌舞劇を、披露していた」そうで、それぞれ「猿楽の能」・「田楽の能」と呼んでいたそうです。
こういった芸能を披露する、今でいう劇団の事を当時は「座」と呼んでいたそうで、寺社に守られていたので、法会(ほうえ)や祭礼に集まった人に、その芸を披露していたのだとか★
●これが南北朝とか、室町の時代になって(!)
・・・うぅむ、ここでまたもや室町時代です。 (^_^;)
この時代は、稲作が全国に普及した(もちろん、北海道を除く★)と言われる時代ですし、また、あらゆる日本文化が目覚め♡
(私こと山野亜紀的には、馴染がある)日本で一番古いと言われている武道の流派である香取神道流が発祥したのも、この時代です。
この頃、都では田楽の方 (抽象的な舞をやっていたらしい★)が人気だったんですが、もう少し芸術性を高める努力をした能楽が、そこに迫ります♡
特に、大和国(奈良県)で活躍する大和猿楽四座が人気を呼んで、室町幕府(足利義満)の庇護を受けるようになってから、その身辺は一転(!)
これが、今の能楽の各流派のルーツなんだそうです。 (^_^)/
大和猿楽四座、・・・つまり座が4つあった(!)という事ですよね♡
外山(とび)座が、宝生流。
結崎(ゆうざき)座が、観世流。
坂戸(さかと、またはさかど)座が、金剛流。
円満井(えんまんい、またはえまい)座が、金春流だそうです。
●能といえば、歴史の教科書で「観阿弥、世阿弥親子が能を芸術として発展させた」と習ったように思います。
上から2番目の結崎座に所属していたそうで、「それまでの舞に、ドラマ性を盛り込む先駆者」というのが、この人だったそう。
その子供の世阿弥は、足利義満に特に可愛がられたのだそうで、「風姿花伝」という演劇論を書き残し、今でもよく使われる「秘すれば花」やら「幽玄」、「初心忘るるべからず」なんて言葉は、その中で残された言葉なんだそう。 (゜-゜)
一回波に乗った能楽は、その後は武士の間にも広がっていき、豊臣秀吉はもちろん、徳川幕府が「幕府の式楽と定めた」ので、能役者は幕府や各藩に仕えるようになりますが、ちなみに宝生流は、金澤は前田藩に愛されていたそうです♡ (〃∇〃)
●能楽は、今でこそ「能・狂言・能」といった公演方式ですが、その昔は一日中「能だけを行う」モノだったとか★
なので朝は、日の出の爽やかさを彩る「神の舞」などを披露します。
・・・そして、昼ぐらいになると、穏やかな女性の物語などを奏でる演目を。
午後から夕方にかけては、少々興奮して血の騒ぐ時間帯なので、戦のドラマを。
夜になると、鬼が出てくるような演目を行っていたそうですが、これで終わっては印象が悪いという事で、「お目出度い演目を最後にかけて終わる」のが、仕来たりだったとか★
・・・お目出度い曲といえば、そういえば時代劇の結婚式のシーンで、三々九度の後によくやりますよね。 (゜-゜)
「高砂や、この浦船に帆を上げて~♪」
あの謡いは、これまた室町時代に世阿弥が創ったモノだそうで、ドラマでは大抵、この辺りでカットに。 (^^;;
・・・何故って、今回初めて知ったんですが★
コレって「能楽の謡い」だからお話仕立てで、長~い曲だから(!)
全部使うとなると、これまた大変なんですね。 (゚_゚i)
●この歌は、ある日九州は阿蘇宮の神官が、播磨の国(今の兵庫県)の、高砂の浦にやって来るところから始まります。
松の美しい浦で、神官は松の木陰を浄めている老夫婦に出会います。
神官は、
「有名な高砂の松はどれなのか、・・・そもそも高松と住吉と遠く離れているのに、何故にこれらが相生(あいおい)の松と呼ばれているのか」
と、尋ねます。
すると老人は、「この松こそ、高砂の松だ」と教えてくれて、
「遠く離れていても、夫婦の心は通じ合うもの、松葉の色のように変わる事はない。 ・・・例えば、自分は住吉(今の大阪府)の住人だが、俺の妻は高砂(兵庫県)に住んでいる」なんて言います。 👀
・・・そして、自分達は松の精であると身分を明かして神官に、住吉へ来ると良いと告げて、舟に乗って行ってしまいます。
その事を、また浦に住む別の男に話してみると・・・それは奇特な事だと感心をされて、住吉に行く事を勧められたのでした。 👀
そこで新しく作った舟で行ってみた処(この船出の処が例の、「高砂や~♪」の部分★)
なんと(!)
住吉明神が現れて、美しい月明かりの下、天下泰平の舞を踊ってくれた・・・といった筋書きなんだそうです・・・。 (^◇^;)
●この謡のラストは、こんな一節。
「さすかひなには 悪魔を払い をさむる手には 寿福をいだき
千秋楽は民をなで 萬歳楽には命を延ぶ、相生の松風、颯々の声ぞ楽しむ」
・・・と、ここにある言葉から(!)
お相撲やお芝居の公演の最終回の事を「千秋楽」と呼ぶようになったとか★ 😅💦
ここで謡われている「松の木」は、古来から日本では、「神の宿る木」とされているんだそうですね。 👀
・・・そういえば、年神様を迎えるお正月に門を飾る、門松も「松」ですよね。
常緑樹ですから、色が変わる事がありませんし、そんな処から「千歳」と詠まれる事も多くて、何より長寿のめでたさを表す樹木なんだとか。 (゜-゜)
●また、松には実は雌雄があるそう(!)
なので、そこも相生・・・つまり、夫婦を連想させる樹木になるんだそうです。
●ところで神の曲を舞う能楽師たちは、今も公演前は食事の制約があるのだ
そう。
・・・何より、時の権力者に守られた能楽師たちは、世が世なら、気に染まねば千利休のように、切腹を申しつけられる事になったんだそうなんです・・・★ (^◇^;)
謎は謎ながら、今回お話して下さった宝生流の代々の能楽師にも、何故だか短命な方がいらっしゃるらしく★
・・・芸術って、擁護してもらうのもコトなら、気に入られた後も、色々と大変なのね・・・★
そんな事を、しみじみと思ってしまった・・・私こと、山野亜紀なのでありました。 (^_^;)
(2014.11.1 文責・山野亜紀)
〇2014年11月のお膳
※「和心きらり(http://wagokoro-kirari.tokyo/)」より転載
・・・700以上のレシピ・旬エッセイ・ブログを現在、移築中。😅