第17話 大井川に、行ってみた~いっ!!(2014年10月)
●ゲリラ豪雨はもちろん、何やら台風までが、数珠繋ぎでやって来る2014年の10月・・・っ!
そんな昨今ですが、皆さまのお住まいは大丈夫でしたでしょうか?
・・・私こと山野亜紀の実家の小金井市や、渋谷にある事務所は大丈夫だったのですが、埼玉県は和光にも近い「殺陣道場・武劇館」が(!)
何しろ、坂の途中に建っている建物なので、和光で高架化道路が冠水してお茶の間を騒がせていた時などは、建物下部の駐車場から、床上にまでもちらっと浸水(!)
浸水した部分を消毒してもらったり、後日、またこんな事があった時の為にと、土嚢をもらって来たり。
対策に、林先生は奔走されたんだそうです。 (T_T)
●2014年9月の末、御嶽山が噴火をするしで、ホントにびっくり致しました。
自然にはホントに、人間なんて何一つ、一切勝てない・・・。
そんな事を思う私こと山野亜紀でしたが、今でさえそうなのだから、お江戸の頃なら。
さらにその前だったら、更にもっとだったかと思います。 (-_-;)
そんな事を、ノホホン・・・と考えていた時(!)
何故だか急に、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」という歌を、ひょんと思いだしました。
かような訳で、今回は大井川のお話をしてみたいと思います。
●ちなみに、今は亡き私の母は、橋が大好きな人でした。 (^_^;)
私的には、橋といえば何故だか瀬戸大橋を思い出してしまいます。
亡き父と最後に行ったのが、四国旅行だったからでしょうか。
本州から四国に渡るのに、行きは船だったかと思うんですが、帰りは出来たばかりの瀬戸大橋を渡りました。
渡ってみると、その技術はもちろん、その距離の長さにも驚かされたんですが、その時しきりに、
「(渡橋料金が)高いんですよ・・・」
と、バスガイドさんが嘆いていた事を、よく覚えています。 (^▽^;)
●そういえば、TBSドラマ「水戸黄門」なんかで。
黄門さまが「大井川の川越(かわごし)をしている風景」を、子供の頃に見ていたようにも思います。
なぜ、当時の大井川には「橋がなかった(!)」んでしょう・・・。
歴史の苦手な・・・私こと山野亜紀にとって、それは特に興味のない事でした。 ( ̄_ ̄ i)
とっても広い川に(映像では)見えたので、当時はまだ、こんな川に橋を渡す技術がなかったから(!)
・・・だから橋がなかったんだろうなんて、何の疑問もなく思っていました。
●はてさて。
それが2014年・NHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組で、「加賀藩の参勤交代が、どのような旅路を辿ったか」が特集されていました。
とにかく当時の人にとっては、参勤交代というのは、エラく大変な出来事だったようでした。
加賀藩だけではなく、何やら藩の場合はこんな苦労を・・・といった下りもあり、その中にたしか、大井川も紹介されていたようで、私こと山野亜紀は、ウンジュウウン歳にして初めて(!)
・・・初めて、興味を覚えたのでございました。 (〃∇〃)
●関ヶ原の戦いが終った翌年の1601年、お江戸から京都までを繋ぐ東海道でのお話です。
全長で「126里6丁1間」、現在に換算して約492キロ(!)
・・・これを当時の人は、12日~15日くらいで歩いた(!)という事は、1日40キロ程を平気で毎日歩いていたんですか? 日本人★
うーむ・・・。 (^▽^;)
お武家様なら、この距離を馬で行く処でしょうけれど、馬だってずっと走っていたら疲れるし、人も疲れます。 (´_`。)
公務ならば、同じ人や馬で移動するより、人馬共に交代をしながら道を辿った方が、ずーーーっと効率的ですよね。 (゜-゜)
・・・と、かような訳で。
徳川家康さんは「東海道に53箇所の乗り継ぎ場所」というのを、設けました。
もともとの宿場町を活用しての、この数なんだそうですが、宿にあたる旅籠はもちろん、お役所も各所に備えた訳で、これを「伝馬制度」というそうです★
●ここで登場するのが、静岡県の島田宿と金谷宿です。
徳川家康さんは、江戸幕府を開いたと思ったら、あっという間に引退(!)
・・・故郷の静岡は駿河城に引っ込み、大御所として暗躍を重ねていきますが、一応足元だけは整えたものの、まだまだ落ち着けない事情がそこかしこにあります。 (^_^;)
そこで、もちろん駿河の周辺には「信頼のおける殿様を置いた」訳ですが、いつ何処が敵になって、襲って来るかも判りません。
そこで、船で藩越えをしても良い川と、徒歩でしか出来ない川とを幾つか設けたそう。
特に大井川は、藩境にある川だったので、念には念を入れて架橋と通船は禁じた(!)のだとか★
●何しろ、川越人足に頼らなければ一切、川が渡れないというご時勢に。
朝の明け六ツ(午前6時頃)から、暮六ツ(午後6時頃)までが営業時間です。
毎朝、待川越と呼ばれる役目の者が水深を測り、川会所前の高札(島田と金谷の二ヶ所)で、本日の値段を知らせます。
水の深さで、お値段が5種類に分かれるんですね。 👀
人足の脇通(わきどおし)と呼ばれる(1.5m)まで水が来たなら、今日の川越は中止です。
・・・天下人の定めた事ゆえ、他に手段なんかありません。 (´_`。)
なので水が治まるまでは、宿かなんかで待つとなると、宿代までも、どんどんと嵩んでいきます・・・★
「大自然には、勝てねぇ・・・★」
と、一体どれ程の旅人が空を見上げて、ため息をついた事でしょう。 (-_-;)
●また川会所には、こんなシステムがあります。
例えば、川越人足の長老になると、「年行事(というお役目★)」について、川越賃の取立や帳簿付け、人足の手配などの役目に付き。
・・・そして宿場町の役人関係からは、川越賃の統制や値段を定める「川庄屋(という、これまたお役目★)」に就く者が立つんですが。
地元ならまだしも、遠方からの旅人には、こんな難しいルールは判らないので、そこを手助けする「立会人なるお役目の人」が、旅人に川越のレクチャーをしたのだとか・・・★ (^▽^;)
よくテレビで見ますが、肩車(かたくま)というのが、人足に肩車をしてもらって川越をするタイプ。
こちらは本日の値段の川札1枚で渡れますが、帯通し(76センチ程)を越える水位だと、手張(補助)が付くのでもう1枚必要になります。
ちなみに川札1枚の値段ですが、最低の股通(またどおし)と比べて、高値の脇通(わきどおし)なら2倍にアップです。 (゜-゜)
●漣代(れんだい)越しは、「平」・「半高欄」、「中高欄」・「大高欄」の4種類。
平なら下の写真のごとくに「台に手すりがなく」て、乗り手が1人なら担ぎ手が4人(川札4枚)と、台の使用料の「台札」が2枚。
乗り手が2人になれば、上記の川札に、台札がこれは4枚。
台に手すりが2本付けば、半高欄と呼ばれます。
担ぎ手は同じ人数なので、川札が4枚に、台札が4枚です。
●手すりが4本の中高欄なら、担ぐ棒が台の下に2本長く伸びるので、それに備えての担ぎ手が10人に(!)
なので川札10枚に、介添えの手張が2人で12枚。
他に台札が24枚付くので合計、36枚もの大・出費(!)になります。(^_^;)
「大高欄」なら、担ぐ棒が4本に増えるので、担ぎ手は16~24人(!)
手張4人が介添えについてで、台札が32枚の52枚になりますが、これは大名などを乗駕籠のまま川越をする為のもの。
特別で、滅多にない川越かと思います。 ( ̄_ ̄ i)
そのほか、費用はないのが「棒渡し」といって、人足が棒を2本川に渡すので、それにつかまっての川越があったり。
侍だけが許される、馬渡し(馬に乗ったまま、荷物を載せたままで渡る)などあったそうですが、この川越人足になるためには、12の年から見習いになって、技術を習得しなくてはなりません★
川越人足には、身分制度までありますが、逆に認められてしまえば、収入の安定した職業だったそうで、明治に入ってからは、この川にも橋が架けられてしまったので、こういった人足達は全て職を失ってしまい、それはそれで大変な思いをしたのではないか、と思われます・・・。 (>_<)
そんな時代が、あったのね★
歴史が大の苦手な・・・私こと山野亜紀が、東海道事情に目覚めた出来事でございました。 。゚(T^T)゚。
(2014.10.1 文責・山野亜紀)
〇2014年10月のお膳
※「和心きらり(http://wagokoro-kirari.tokyo/)」より転載
・・・700以上のレシピ・旬エッセイ・ブログを現在、移築中。😅