
ワシは故郷を捨てた人間だからなあ
親族の食事会で、親父がボソッと口にしたひと言です。
私の両親は高知県出身、親父は紆余曲折あって京都で公務員になり、お袋はそれについてきたというわけで、私と姉は京都で生まれています。のちにお隣の滋賀に移住し、実家は今でも滋賀にあります。
姉は地元滋賀の男性と結婚し、相手の実家に入りましたので、まあ「故郷で家庭を築いている」人であります。姉の子供二人は、一度も実家を出ずに成人したぐらいです。
私は末っ子の気楽さ加減をフルに発揮し、転勤を機に東京へ10年近く移り住んだり、関西でも京都や大阪に、ベトナムのホーチミンに2年赴任したりと、まあ一貫性のない生き方をしております。
親父は82歳。
もう人生の半分以上を滋賀で過ごしているわけなので、実質上は滋賀が両親の「終のすみか」となるべき地になる(実際、生前墓も既に作ってあります)はずです。
そうなると、高知への郷愁も(ないとは言わないまでも)そんなに強くないのではないかと思っていたのですが......。
「故郷を捨ててきた人間だ」
この自己認識は重いと思うのです。
親父の兄弟の中では頭もいい方で、大学進学もできた人だったのですが、さまざまな事情でそれが叶わず。それでも、おまえは高知にいてほしいという周囲の思いを振り切って京都に出てきたのでしょう。
「本当は高知に帰りたいけど、もう今更帰れない」
口には出しませんし、私からも聞きませんけど、そういう思いはずっと親父の奥底にあるのかもしれません。
あと、それを横で見てきたお袋の気持ちも、測り難いところがあります。お互いの本心とかをなかなか明かさない人たちなので。
そして私は、故郷は生まれた地である京都だと強く思っています。
両親は滋賀にいるので、実家はいかにも滋賀ですが、滋賀が故郷だとは全く思ってないのですよ。それよりも、第二の故郷は、10年近く過ごし、人格的&スピリチュアル的な目覚めを得た東京の方がふさわしいと考えています。
人により「故郷」の定義はそれぞれ。
後生大事にたとえ離れてもひとつの地を思い抱き続けるのも人生だし、私のように「長く住んでいたからと言ってそれが自動的に故郷になるわけじゃない」と割り切るのも人生。
私は「居心地がよく、自分を高めてくれる」場所を「帰りたい場所、安らぎたい場所、本来の自分でいられる場所」という意味で「故郷」と定義したいです。
今のところは東京と京都ですが、この先の人生で、また別の土地が「故郷ナンバーワン」に居座るかもしれません。