『The Atomic Bombings Reconsidered』を読む(編集中)

JOURNAL ARTICLE

The Atomic Bombings Reconsidered

Barton J. Bernstein

Foreign Affairs
Vol. 74, No. 1 (Jan. - Feb., 1995), pp. 135-152 (18 pages)
Published By: Council on Foreign Relations
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原爆投下の再考

バートン J. バーンスタイン

アメリカが問うべきこと

 50年前の1945年8月の3日間、アメリカ合衆国は日本に2発の原子爆弾を投下し、その犠牲者は115,000人以上、可能性として250,000人以上、さらに少なくとも100,000人が負傷した。戦後、この原爆投下は、なぜ、どのように使われたのかという倫理的、歴史的な問題を提起しました。ドイツに原爆が投下されていたであろうか?なぜ多くの民間人が犠牲になるような都市が爆撃されたのか?戦争を早期に終結させ、かつ連合国が1945年11月1日に予定していた九州侵攻を回避する別の方法は存在したのか?
 このような質問は、広島と長崎以前には、原爆の使用が政策決定者にとって深い道徳的問題を提起するものではなかったことを認識していないことが多い。原爆はドイツとの競争の中で生み出されたものであり、原爆がもっと早く準備できていれば、間違いなくドイツに対して使用されていただろう。戦争中、その標的は日本に移った。第二次世界大戦の悲惨な戦争の過程で、民間人はすでに攻撃対象になっていた。アメリカの対独航空戦の後期には、大量の非戦闘員も意図的に犠牲となった。この戦術は、1945年の日本の都市への爆撃によってさらに広められた。このような大量爆撃は、戦前のフランクリン・D・ルーズベルト大統領による、民間人の命を守るために都市爆撃を避けるようにという嘆願を否定するものであり、モラルの変質を意味する。こうして1945年には、アメリカの指導者たちは日本への原爆投下を避けようとはしなかった。しかし、現在のアーカイブ研究から得られる証拠は、代わりに別の戦術を追求すること によって、恐るべき侵攻を回避し、11月までに戦争を終結させることができたであろうことを示している。

ドイツから日本へ原爆投下対象の移行

 1941年、ルーズベルト大統領は、移民やアメリカ人の科学者たちに促され、ヒトラー率いるドイツとの絶望的な原爆開発競争と思われた原爆開発計画(後にマンハッタン計画というコードネームで呼ばれる)を開始した。ルーズベルトとその側近たちは、原爆は正当な兵器であり、まずナチス・ドイツに使用されるだろうと考えていた。彼らはまた、ソ連が戦時同盟国となった後でも、原爆計画はソ連に秘密にしておくべきだと決めた。原爆は将来、アメリカにとってソビエトに対する影響力を与える可能性があったからである。
 1944年半ばには、戦争の様相は一変していた。ルーズベルトと彼の最高顧問たちは、標的が日本になる可能性が高いことを知っていた。ドイツとの戦争は、原爆の準備が整うと予想される1945年の春頃までには間違いなく終結するだろうと考えていたからだ。ルーズベルトとウィンストン・チャーチル英首相は、1944年9月にハイドパークで交わされた密書の中で、ドイツから日本へのシフトを確認した。彼らの言い回しは、いずれにせよ当面は、原爆を実際に使用することに若干の疑問を抱いていた可能性を示唆していた。というのも、彼らは「この爆弾は、熟慮の末、改めて日本軍に使用されたとしてもおかしくはない」(筆者強調)と考えていたからである。
 その4日後、ルーズベルトは、来訪した英国の外交官と米国の主任科学顧問であるヴァネヴァー・ブッシュとともに、原爆を日本に投下すべきか、あるいは米国で、おそらくは日本人による立会いのもとでデモンストレーションを行い、その後にそれを脅威として使用すべきかについて、意見を交わしていた。大統領のこの考えは重要でないように思え、またプロジェクトの長年の前提に反するものであったため、ブッシュは会議のメモを作成したときには実はこの話を忘れていたのである。ブッシュは大統領の発言を一日後に思い出し、別のメモに短い一文を付け加えただけだった。
 原爆は敵に対して使用されるという大前提と並べて考えれば、ルーズベルトが時おり口にした疑念の意味は、まさにその時折であったことにある。約4年の間に2度述べられたのである。原爆について知っていたルーズベルトの助言者たちは皆、常に原爆が使用されることを疑うことなく想定していた。実際、彼らの覚書には "使用された後 "や "使用された時 "という表現が多く、"もし使用されれば "という表現はなかった。1944年半ば頃には、大半が、原爆の標的は日本になるだろうと確信を持っていた。
 1944年9月、マンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブズ陸軍准将が、空軍に原爆投下訓練を開始するための特別グループ(509部隊、1,750人)を創設させたとき、原爆が戦争兵器として承認されたとの考えが官僚の間でも広まった。日本に対して使用されるという前提が有力であった中、ワシントンの高官であったロバート・パターソン陸軍次官ただ一人だけが、欧州戦線勝利の日の後、この考えに疑問を呈した。彼は、1945年5月8日にドイツが敗北したことで、日本への原爆投下計画が変更されるのではないかと考えた。しかし、そうはならなかった。

使用前提

 ンハッタン計画には20億ドル近くの資金が投入されたが、ほとんどの閣僚と議会のほとんどのメンバーには知らされていなかった。信頼の厚い共和党のヘンリー・L・スティムソン陸軍長官と、同じく信頼の厚い陸軍参謀総長のジョージ・C・マーシャル大将は、数人の議会指導者だけにこのプロジェクトを公表した。彼らは、主要な予算委員会の委員を含むほとんどの議会議員に知られることなく、ましてや精査されることもなく、必要な予算を内密に陸軍省の予算に計上した。行政府と立法府の数人が合意した国益の概念が、通常の予算計上の進行を変更したのである。
 1944年3月、特別調査委員会を率いる民主党の上院議員がこの巨額のプロジェクトについて詮索しようとしたとき、スティムソンは彼の日記で「厄介者で、かなり信用できない...。口は達者だが、行動は卑屈だ」 と述べている。その人物とは、ハリー・S・トルーマン上院議員である。マーシャルは、このプロジェクトを調査しないよう彼を説得した。そのためトルーマンは、1945年4月12日に突如大統領に就任するまで、このプロジェクトが新兵器に関係していること以上のことを知ることはなかった。
 1945年初め、当時ルーズベルトの「大統領補佐官」として内政を担当していたジェームズ・F・バーンズは、民主党の敏腕政治家であったが、マンハッタン計画は大失策ではないかと疑い始めた。「もし(計画が)失敗だと証明されれば…」と彼はルーズベルトに語り始め、「容赦ない調査と批判にさらされるだろう。」と警告した。このバーンズの疑念は、スティムソンとマーシャルによってすぐに打ち消された。陸軍省の極秘報告書は、誇張を交えて状況を要約した: 「プロジェクトが成功すれば、調査など行われない。プロジェクトが失敗したとしても、それ以降何も調査されることはない。」
 もしルーズベルトが生きていたら、このような政治的圧力が潜んでいたことで、敵に兵器を使用するという彼の意図が強力に裏付けられたかもしれない。ルーズベルトは以前からそう考えていたのだ。20億ドルもの大金を費やし、他の戦争計画から希少な資材を流用し、議会を避けて行うことを、他にどのように正当化できただろうか。科学を信頼する準備がまだ整っていない国家において、マンハッタン計画は、その価値が原子爆弾の使用によって明確に示されなければ、極めて大きな無駄遣いと思われただろう。
 トルーマンは、マーシャルとスティムソンの両人を信頼し、このプロジェクトを引き継いだが、そのような政治的圧力にはさらに弱かった。そしてルーズベルトのように、新大統領は原爆は使用されるべきであり、また使用されるだろうと容易に考えていた。トルーマンはその前提を疑いもしなかった。彼がホワイトハウスに入る前に動き出した官僚の動きは、彼の考えをより強固なものにした。そして彼の側近たちの多くは、ルーズベルト政権からの継承者たちであり、その信念を共有していた。

ターゲット都市の選定

 ローブスは、原爆プロジェクトの支配権を維持することを熱望し、1945年初春にマーシャルから新兵器の標的を選定する許可を得た。グローブズとその仲間たちは、「通常の爆弾が(少なくとも)2,500搭載された爆撃機」に相当する新しい兵器を開発していることを以前から認識していた。そして彼らは、原爆を「地上よりかなり高い位置で爆発させ、主に爆風効果によって物的損害を与え、(確率的効率を最小にしても)修復不可能な損害を受けた建造物(住居や工場)の数を最大にするもの」と想定していた。
 4月27日、グローブスと、ローリス・ノルスタッド少将ら陸軍航空隊員、そして大数学者ジョン・フォン・ノイマンを含む科学者で構成される原爆投下目標委員会が初めて会合を開き、日本のどこにどのように原爆を投下するかが話し合われました。彼らは貴重な兵器を無駄にするリスクを冒したくなかったので、原爆の準備が整う夏に日本の天候が良くないにもかかわらず、レーダーではなく目視で投下することを決定した。
 良いターゲットが豊富にあったわけではない。空軍は「石ひとつ残さないことを第一の目的として、東京、横浜、名古屋、大阪、京都、神戸、八幡、長崎などの都市を計画的に爆撃、又は爆撃計画をしていた。空軍は主に日本の主要都市を破壊するために活動している。現在の任務は、東京を爆撃することである」と知っていた。1945年初頭までに、
 第2次世界大戦、特に太平洋における戦争は、事実上全面戦争となった。ドレスデン空襲は、アメリカ国民に支持されたアメリカ空軍が、計画的に日本国民を大量に殺害する前例を作る一助となった。非戦闘員の免責というそれまでの道徳的主張は、残虐な戦争中に崩れ去った。東京では、3月9日から10日にかけて、米軍の空爆によって約8万人の日本人が死亡した。米軍のB29は、東京の人口密集地にナパーム弾を投下し、統制不能の大火災を引き起こした。ヨーロッパ以外の国で、日本に対してこの新しい戦争を行うことは、より容易であったかもしれない。その理由は、アメリカ国民や アメリカ政府の指導者たちにとって、日本人は「黄色い劣等人種」のように思えたからである。
 この新たな道徳的背景の下で、敵国の民間人の大量殺戮が望ましいとさえ思われたため、原爆投下目標に「人口の多い地域に存在する直径3マイル以上の大都市地域」を選ぶことに委員会は同意したのだった。4月27日の討議では、4つの都市に焦点が当てられた: 広島は「爆撃機司令部の優先リスト21にない、手つかずの最大の攻撃目標」であり、真剣に審議する理由があった。鉄鋼業で知られる八幡、そして横浜、東京は「候補地ではあるが、(現在は)事実上すべてが爆撃され、焼け野原となり、瓦礫と化している。」とされた。そしてそれ以外の地域も検討の必要があると判断した: 東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保である。
 目標の選定は、爆風、熱、放射線のバランスなど、爆弾がどのように致命的な働きをするかにかかっていた。5 月11日から12日にかけて行われた2回目の会合で、ロスアラモス研究所所長の物理学者J・ロバート・オッペンハイマーは、爆弾の材料そのものが、おそらく10億回分の致死量があり、兵器が致死量の放射能を放出することを強調した。空中で爆発するようにセットされた爆弾は、初期活性物質または放射性生成物の大部分を標的のすぐ近くに沈着させる。放射線は当然、目標地域の被爆者にも影響を与えるだろう。ほとんどの放射性物質がどうなるかは不明だが、爆発地点の上空で何時間も滞留する可能性もあるし、雨天時や湿度が高いときに爆発して雨を降らせた場合、"ほとんどの放射性物質は標的の周辺に降り注ぐだろう "と彼は認めている。オッペンハイマーの報告書では、放射線によって死亡する人口がかなりの割合なのか、ごく一部なのかは不明なままであった。僅かな記録から判明する限りでは、原爆投下目標委員会のメンバーでこの問題に言及した者はいなかった。 おそらく彼らは、放射線が致命的な働きをする前に、原爆の爆発でほとんどの犠牲者が出ると考えていたのであろう。
 標的を検討する中で、彼らは東京の皇居を爆撃する可能性についても議論したが、「われわれはそれを推奨すべきではなく、この爆撃のためのいかなる行動も、軍事政策に関する当局からもたらされるべきであると合意した」と述べている。
原爆投下目標委員会は4つのトップターゲットを選んだ: 京都、広島、横浜、小倉造兵廠の4つで、テニアン基地を抱える空軍第509部隊から遠く離れた新潟を5番目の候補地として控えていた。人口約100万人の古都・京都は、委員会にとって最も魅力的なターゲットだった。加えて、委員会の議事録によれば、「心理学的な観点からは、京都は日本の知的中心地であり、そこに住む人々はこのような兵器の重要性を理解しやすいという利点がある」のだという。原爆の惨状を目の当たりにした京都の被爆生存者は、自己の体験を語るとき、より信憑性を持って他の日本国民及び他国民に聞き入れてもらえるだろう、という意味合いだった。
 特に重要だったのは、原爆を脅威兵器として使用し、「日本に対する最大限の精神的効果」をもたらし、アメリカがこの新兵器を保有していることを世界、特にソ連に認識させることだった。死と破壊は、生き残った日本人を威嚇して降伏を迫るだけでなく、その他の国々、特にソ連を牽制することになる。要するに、アメリカは戦争の終結を早め、同時に戦後の世界を形作る手助けをする事が可能だったのだ。
 2週間後の5月28日、委員会の3回目の会合で、彼らは目標を絞り込んだ。目標は京都、広島、新潟の順とし、各都市の中心部を狙うことにした。工業地帯を狙うのは間違いだという意見で一致した。なぜなら、工業地帯の標的は小さく、都市の周辺に広がっており、かなり分散しているからだ。彼らはまた、爆弾が5分の1マイル(約1.6キロ)単位で簡単に標的を外す可能性があるほど爆撃が不正確であることも知っていた。この爆弾がその力を発揮し、無駄にならないようにしたかった。
 委員会は、この3つの都市が空軍の通常目標リストから外され、原爆投下のために確保されることを承知した。しかし、「現在および将来の爆撃予定では、1946年1月1日までに日本への戦略的爆撃が完了する見込みであるため、将来の(原爆)標的の確保が問題となる」と委員たちは伝えられた。要するに、日本は爆撃され尽くされるのである。

原爆投下の批准

 1945年5月28日、ノーベル賞受賞者であり、原爆に関する政策を提言するために新たに任命された上級暫定委員会に助言を与える特別科学委員会のメンバーであった物理学者アーサー・H・コンプトンは、原爆がどのように使用されるかについて、道徳的、政治的に重大な問題を提起した。「大量殺戮という問題を、歴史上初めて提起している」と彼は書いた。「被爆地が放射能に汚染される恐れがある。本質的に、新兵器の使用という問題は、毒ガスの導入よりもはるかに深刻な意味合いを持つ。」
 コンプトンの懸念は、マーシャルからも一定の支持を得た。マーシャルは5月29日、スティムソン長官に、原爆はまず民間人ではなく、軍事施設(おそらく海軍基地)に対して使用されるべきであり、その後、民間人が逃げるよう十分な警告を受けた後に、大規模な製造地域に対して使用される可能性もあることを伝えた。マーシャルは "このような武力の行使が誤った思慮に基づくものであった場合、反感を買いかねない "ことを恐れていた。バージニア陸軍士官学校を卒業し、訓練された兵士であったマーシャルは、意図的に民間人を殺さないという古い掟を守ろうと奮闘した。科学者コンプトンと軍人マーシャルの悩みは、非戦闘員の犠牲を免れようとする以前の戦争観に基づいた価値観であったのだが、いつの間にか、切迫した状況、人々に原爆を使用することへの意欲に取って代わられ、ワシントンの上層部付近の誰もが、この古い道徳観を維持することを力強く訴えることを望まなかった、あるいはできなかったのである。
 1945年5月31日、スティムソン、ブッシュ、ハーバード大学のジェームズ・コナント学長、物理学者で教育者のカール・T・コンプトン、国務長官に指名されたジェームズ・F・バーンズ、その他数名の著名人で構成された暫定委員会が原爆について話し合った。この会合の冒頭で、最近の民間人への大量爆撃に苦悩していた老軍務長官スティムソンは、原爆を「人間と世界との新しい関係」と表現した。この発見は、コペルニクス理論や重力の法則の発見と比較されるかもしれないが、人間の生活への影響という点では、これらよりもはるかに重大である」と語った。
 当時、彼らはアラモゴードにおける最初の核実験の6週間前に出会っていたが、この新しい兵器の威力についてはまだ確信が持てずにいた。オッペンハイマーは、その爆発力はTNT火薬換算で2,000トンから20,000トンになるとグループに対して報告し、その視覚効果は絶大だろうとしています。「1万から2万フィートの高さまで上昇する燦然と輝く発光を伴うだろう」とオッペンハイマーは続けて報告します。「ニュートロン効果(放射線)は、少なくとも半径3分の2マイルは生命にとって危険であろう。」彼は20,000人の日本人が死亡するだろうと推定しました。
 委員会の議事録によれば、グループは「さまざまな攻撃目標とその効果」について議論した。スティムソンは、「日本側に警告を与えることはできない、民間地域に集中攻撃することはできない、しかし、できるだけ多くの住民に深い心理的印象を与えるよう模索すべきだという結論を表明し、大方の意見が一致した。そしてコナン博士の提案で、最も望ましい標的は、多数の労働者が働き、労働者の住居に密接に囲まれた重要な戦争工場であるということで同意した」と述べている。
 スチムソンが率いるこの委員会は、実際にはテロ爆撃を支持していたのだが、いささか不安を感じていた。マーシャルが最近提唱したように、軍事目標(旧来の道徳)だけに焦点を当てるのではなく、民間人(新しい道徳)に完全に焦点を当てるのでもない。彼らはテロ爆撃というその目的を、自らにはっきりと自覚させることなく達成することに成功しているのだ。全員が、女性や子供、そして昼間でさえ、爆撃の際には何人もの労働者が "労働者の家 "に住んでいることを知っていた。
 委員会の午前か午後のセッションで、あるいは昼食の席で、あるいはおそらく3回とも、委員によって記憶が異なるが、原爆の不戦実演という構想が持ち上がった。原爆の使用方法の問題は、スチムソンの議題にもなく、暫定委員会の正式任務にも含まれていなかったが、彼は非戦闘的デモンストレーションの話題に一応の関心を示したのだろう。ところが間もなく却下されてしまった。爆弾が作動しないかもしれない、日本空軍が爆弾投下を妨害するかもしれない、原爆が日本の軍国主義者に十分な印象を与えないかもしれない、日本軍がその地域に配置するかもしれない味方の捕虜を原爆が焼殺してしまうかもしれない、などさまざまな理由から危険すぎると判断されたのである。
 5 月31日の話し合いは、日本に対して原爆をどのように使用するかにかなり焦点が当てられていた。ある時点では、メンバーの何人かは、複数の原爆を同時に、おそらくは同じ都市に投下しようと考えていた。グローブスはこの案に反対した。その理由の一つは、「通常の空軍の爆撃計画との効果が十分に区別できない」というものであった。グローブスは、他の人たちと同様、一発の爆弾が一機の飛行機によって投下され、何千人もの死者を出すという劇的な効果を期待していたのである。空軍が多くの日本人を殺すことは目新しいことではなかったが、この方法は新しいものだった。そして、この新兵器の使用は、8月初旬のアメリカの宣言で強調されたように、日本の都市に対するさらなる核攻撃の可能性、つまり「破滅の雨」の継続を意味するのだった。
 暫定委員会から2週間後の6月16日、移民物理学者ジェームス・フランクとレオ・シラードと、マンハッタン計画シカゴ研究所の同僚数人が、日本への原爆の奇襲使用について道徳的、政治的な問題を提起した後、4人のメンバーからなる特別科学諮問委員会が、非戦闘デモンストレーションの問題を討議した。このグループは、物理学者アーサー・コンプトン、J・ロバート・オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ、アーネスト・O・ローレンスで構成されていた。ある報告によれば、ローレンスは4人の中で最後に非戦闘実証の望みを断念した。オッペンハイマーは1954年にこの問題について発言し、その時は他の3人から異論を挟まれることはなかったが、非戦闘デモンストレーションというテーマは、週末の多忙な会合で扱われた中で最重要事項ではなかったため、あまり注目されなかったと振り返っている。6月16日、4人の科学者はこう結論づけた: 「戦争を終結させるような技術的な実験は提案できず、直接的な軍事利用に代わるものとして容認できるものはない。」
 科学者会議のメンバーの何人かが後に不本意ながら認めているように、当時、彼らは日本の状況、日本における軍国主義者の力、和解に向けた平和主義勢力による気弱な努力、アメリカが九州に侵攻する可能性のある時期、そしてまだ検証されていない原爆の威力についてほとんど知らなかった。オッペンハイマーは後に、「私たちは軍事情勢について何も知らなかった」と辛辣に語った。
 しかし、科学アドバイザーが異なる助言をしたとしても、おそらく事態を覆すことはできなかっただろう。原爆は使用するために考案されたものであり、プロジェクトには約20億ドルの費用がかかり、トルーマンと大統領の重要な政治補佐官であったバーンズはその使用を避けたいとは思わなかった。スティムソンも同様だった。原爆はソビエトを威嚇し、戦後ソビエトを扱いやすくするかもしれないからである。
 スティムソンは4月25日付のトルーマンへの極秘文書の中で、この問題を強調している。「この兵器の適切な使用という問題が解決できれば、世界の平和とわれわれの文明が救われるような形に世界を持っていく機会が得られるはずである」。原爆とソ連との関係についての懸念が、1945年の春から夏にかけてスティムソンの思考を支配していた。トルーマンとバーンズも、スティムソンの指導を受けてか、原爆に対する同じ希望を訴えるようになった。

民間人殺害の苦悩

 1945年、スティムソンは、数百数千もの日本の民間人を殺戮した空軍を、苦しみながら統率していることに気がついていた。しかし、彼はこの恐ろしい事実を直視しようとせず、空軍は現実に精密爆撃を行っており、その精密爆撃がなぜかうまくいっていないという考えに逃げ込もうとした。非戦闘員を意図的に殺すことに反対する旧来の道徳観と、事実上の全面戦争を強調する最新の道徳観のはざまで、スティムソンは事実を直視することも、事実から逃れることもできなかった。彼は偽善者ではなく、両義に囚われた男だった。
 スティムソンは6月6日、トルーマンとこの点について話し合った。スティムソンは、空軍の大量爆撃を心配しているが、それを制限するのは難しいと強調した。スティムソンは日記の中で、「私は二つの理由から戦争のこの特性について心配していると話した。第一に、残虐行為においてヒトラーを凌ぐという評判を米国に与えたくない。第二に、準備が整う前に空軍が日本を徹底的に爆撃してしまい、新兵器がその威力を示すための正当な理由がなくなってしまうことを少し恐れていた。 スティムソンによれば、トルーマンは「笑ってわかったと言った」そうである。
 従来の道徳観を再形成することができず、かつ新しい道徳観がアメリカにとって有益であることを望んでいたスティムソンは、ある比較的小さな問題で断固たる態度、あるいは不屈の姿勢を見せた。グローブスの目標都市リストから京都を外したことだ。
 日本人が憤慨して後にソビエトの味方をしないように、遺物は取っておこうとしたのだ。日本人が憤慨して後にソビエトの味方をしないように、遺物は取っておこうとしたのだ。 スチムソンは7月24日の日記で「このような残虐な行為によって引き起こされるであろう恨みは、戦後の長い期間において、日本がロシア側ではなく我々と和解することを不可能にするかもしれない。こうして、満州でロシアによる侵略があった場合に備えて、米国に同調する日本を作るという、われわれの政策を阻止する手段となりかねない。"
 トルーマンはこの件に関してスティムソンを支持し、原爆は軍事目標にのみ使用されると内々に主張した。どうやら大統領は、避けられない事実を認めたくなかったようだ。このような強力な兵器が使用されれば、必然的に多くの民間人が犠牲になる、ということを。トルーマンはこの件に関してスティムソンを支持し、原爆は軍事目標にのみ使用されると内々に主張した。どうやら大統領は、避けられない事実を認めたくなかったようだ。このような強力な兵器が使用されれば、必然的に多くの民間人が犠牲になる、ということを。 7月25日、ポツダムでトルーマンは、アラモゴードの原爆実験がもたらした大規模な破壊結果について満足な報告を受け、その詳細を惜しみなく日記に記した: 直径1,200フィートのクレーター、半マイル先で破壊された鉄塔、6マイル先で倒された人々。"我々は世界歴史上最も恐ろしい爆弾を発明した。この爆弾は予測された通りの火による破壊をもたらすだろう "と彼は日記に書いている。しかしながら、京都の代わりに長崎と小倉という最終的な原爆投下目標リストを承認したとき、「私はスティムソン陸軍長官に、女性や子供ではなく、軍事目標と兵士や船員が標的になるように使用するように言った。たとえジャップが野蛮で、冷酷で、無慈悲で、狂信的であったとしても、その標的は純粋に軍事的なものだけである。」と日記に綴っている。トルーマンは、民間人の大量殺戮を受け入れるために、自己防衛に走っていたのかもしれない。広島も長崎も「純軍事」標的ではなかったが、原爆投下のかなり前に発表された公式のプレスリリースは、この問題をさらりと流していた。例えば、広島は単に "日本陸軍の重要な基地 "と説明されていた。プレスリリースは、これらの都市が、非戦闘員の殺害を部分的に演出するために選ばれたことを知っている人々によって作成された。8月10日、長崎への原爆投下の翌日、トルーマンは大量殺戮の大きさを理解し、日本側が天皇制の継続を条件とする降伏を申し出たとき、大統領は内閣に対し、これ以上女性や子供を殺したくないと述べた。さらなる原爆投下の要求を拒否し、二度と原爆を使用しないことを望んだ。二度の原爆投下後、大量殺戮の恐ろしさは大統領を強く打ちのめし、大統領は、民間人は原爆から守られるべきだという旧来の道徳観に少しでも戻ろうとした。しかし彼は、ナパーム弾、焼夷弾、その他の爆弾が生み出す致命的な犠牲を伴う、日本の各都市への徹底的な通常爆撃を承認し続けた。戦争末期の8月10日から14日にかけて、約1,000機のアメリカ軍機が日本の都市を爆撃し、その一部は日本が降伏を表明した後に犠牲者を出すことになった。アメリカはおそらく15,000人以上の日本人を殺害した。

続く

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