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今読んでいる本の感想、今後の抱負など

2月7日。日曜日。休日はやっぱり、だらしなくなりがち。ほぼ何もせず一日が終わった。

今日は簡易更新で、今読んでいる本の感想や、今後の抱負などなど。このnote、昨日の投稿で、75回目の投稿だったらしい。ちょっとキリがいいので、これまでを振り返ったり、今後の抱負を述べたりなど。

今日の記録

午後、起床。活動開始。午後から起動隊。洗濯をしたり、スーパーに買い物に行ったりなど。

日中、森本あんり『不寛容論』を読む。第2章の中盤ぐらいまで。この本、面白い。

第1章ではアメリカに入植したピューリタン、第2章では中世のカトリックを手がかりに、それぞれの「寛容・不寛容」のあり方を見ている。第3章以降はロジャー・ウィリアムズという人物を中心にやっていくらしい。第2章まででも、十分面白い。だいぶ平易な文体で書かれていて、ゴリゴリのアカデミック感はない。

面白いなと思ったのは、2章に出てくる中世カトリックの寛容・不寛容の話。中世のカトリックはどうも、「異教徒」に対しては寛容で、「異端者」に対しては不寛容であったらしい。異教徒というのはキリスト教以外の宗教を信じる者で、いわば外部の人間である。異端者はキリスト教内部の人間で、本来なら守るべき戒律を守っていない人たちのことを指す。

で、この本によると、中世の教会・聖職者たちは「すべての人にキリスト教を信じさせるのは物理的に無理」と捉えていたそうである。本当は世界中の人にキリスト教を布教せねばならないが、それは労力的に困難だということ。また、人間の弱さも知っているので、地上の悪をすべて滅ぼさんとすると、逆に世の秩序が乱れてしまうことも懸念していたらしい。ので、万人にキリスト教を信じさせようとはせず、異教徒に対しては、「本当はよくないけどね」と思いつつも、それらに「寛容」であったらしい。ただ、あまりにも自分たちの生活に危害を及ぼす場合などは、きっちり処罰したとのことであるが(比較の上での容認、と言われている)。

彼らが不寛容であったのは、どちらかというとカトリック内部の人に対してであったという。つまり、キリスト教の教えに忠実になることを誓ったくせに、実際にはそうでない人たちのこと。パウロも、「外部に優しく、内部に厳しく」の考えを持っていたようで、内輪の異端者については追放を認めていたようだ。

で、これ、僕がもやもや感じていたことと一致していたので、面白かった。というのも、僕もどちらかというと、リベラル「内部」の人たちを批判したい気持ちが強かったため(#40などで一回書いた)。この本では中世のカトリックの寛容を、「あたかも『百万円よこせ』と詰め寄っておきながら、こちらが『これだけしかありません』と千円を差し出すと、それで満足するような柔軟さ」と表している(63頁)。一見、めちゃくちゃハードルの高い要求をしているように見えて、実は完璧な達成までは求めていないということ。僕が違和感を感じている現代の過激なポリコレでは、常に百万円出さないと怒られる風潮もあるので(ありますよね?)、こういう考え方もあるんだなあと納得。とりあえず1000円でも出したことを認める、そういう方向性もありやなと。

ついでにもう一冊。毎日お風呂で読んでいる(Kindle万歳!)、レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』について。

この本はかなりエッセイチックというか、こういうのをセミアカデミックというんだったかしら。著者のソルニットは、著述家であって学者ではない。小説など書いているらしい。ので、学問的に厳密な議論というよりは、あっちこっちに広がりのある内容になっている。

で、この本、タイトルが『説教したがる男たち』なので、いわゆるマンスプレイニングの話をずっとしているのかと思いきや、そうでもない。第3章ではいきなり、国際的な経済格差・搾取の構造の話になる。「彼女の名はアジア、彼の名はヨーロッパ」という具合に、国際関係の中にも、男性が女性を支配する構図が見えるとのこと。権力の関わるあらゆるところに、「支配したがる男性像」が見える、という話をしているっぽい。

厳密な学問的議論を求めている人からすれば、ちょっと物足りないかも知れない。捉えどころのない話も多いので。ただ、フェミニズム関連はこういう、セミアカデミックな本が多数あるので、ちゃんとそういうのも読んでおくのは大事かもなと思った。学術書ばかり選り好みするのではなく、バランスよく摂取するということ。

あと、この本で興味深いなと思ったのは、女性の置かれている「ガチやべえ世界」がちゃんと表されていること。この前(#70)でもちょっと書いたけど、僕はこういう「誰でもやばいと思える世界」のことを「闇の世界」と呼んでいる。ソルニットは第1章のほとんどを強姦の話に費やしているし、その後もいかに女性が過酷な立場に置かれてきたかを記述している。例えば、かつての結婚において、女性は旦那の「所有物」とみなされ、酷い暴行を振るわれても、隣人にも警察にも助けてもらえなかったなど。他にも財産権が認められなかったり、レイプされても全く取り合ってもらえなかったり(特にマイノリティ女性の話)、いろいろ。Kindle、ページめくるのが遅いので、特定の記述を探すのがかなりめんどくさいのが難点。

で、現代社会、多くの人にとってフェミニズムの入り口となるのは、Twitterなんじゃないかと思う(もしくは大学の講義)。ただ、Twitterだと、「オタクVSフェミニスト」とか言われるように、どうにも瑣末としか思えない問題を、何をそんなに必死にやっているのかと思う人もいるかも知れない(本当は瑣末と言い切れないのだが)。もしもフェミニズムを知ったきっかけが、二次絵の規制をめぐる議論だったり、一連のポリコレの流れ(お母さん食堂など)や、一部過激なツイフェミと呼ばれる人たちの主張であれば、「フェミニズム、なんかよくわからんことに必死になっている」という認識を持つ人も生じうる。

ただ、こうやって、かつて女性が置かれていたガチやべえ状況だとか、男性優位が当然の「闇の世界」を知っていれば、少なくとも「フェミニズム」全体を否定するようなことはないんじゃないかと思う。「フェミニズム」の意義は認めるけれど、今やっている瑣末なことは間違っているとか、そういう論調にはなれるのではなかろうか(その場合、なぜ瑣末と言えるのかの説明責任は生じるが)。どちらにしろ、女性の置かれた歴史的背景や、現状についての統計を知っておくのは大事だなと思いました。ソルニットの主張、僕もそうなのか? って思うところはあるけれど、第1章で提示されている問題などは、ちゃんと認めておく必要あり。

簡単に感想書くつもりが、めちゃくちゃ長くなった。しかも、この2冊、どっちもまだ読み終わってないという。全体を読み通してから、もう一回ちゃんとした感想を書きます。

今後の抱負

実は昨日の更新で、75回目の投稿であった。そして同時に、昨日で僕のnoteの総プレビュー数が5000を超えた。わーい。この期に全部開示する。

75回の投稿で総閲覧5000というのは、まあだいぶ少ない方だと思う(YouTubeのチャンネルに例えるとわかりやすい)。細々とやっているので、こんなもんでしょうという気持ちはあり。当方、さびれた港町のカラオケバーのような「場末のブログ」という認識でやっています。まあ、毎日更新することが大事なので、そんな閲覧数は気にしてないのだけれど。

ただ、「お気に入りのあの子が伸びてないのに、こんなくだらねえやつがめっちゃ閲覧されてるよ」っていうのはある。一番閲覧数低い#45とか、深夜に結構頑張って書いてた記憶があるし。閲覧数上から5番目の#56小ネタとか、他人のYouTube動画を紹介しただけだからね。これが伸びるのは悲しいわ。他にはやっぱり、自分の書いたものだと#40とか好きかな。読み返したけど、まあよく書けていると思う。

今後の抱負としては、やっぱりこれからも「場末ブログ」感覚で、ほそぼそやっていこうと思います。バズを狙ったりはしない(し狙っても多分無意味)。ただ、どうにも、自分に面白記事を書く能力はないとわかってきたので、できるだけ研究面の話を増やしていくかな。今日やったみたいに、読んでる本を紹介するなど。あと、昨日やったみたいに、もうちょっと内面の愚痴を吐き出していったりだとか。まあ、色々考えながらやっていきます。

改めて、よくもまあ毎日更新してるわって思うけど、それでもまだ2ヶ月とちょっとなんだよなあって。ほぼ3ヶ月か。今後もやっていくけれど、かなり道のりの長いことですよ。せめて就活の中で、「趣味はブログの更新です! 毎日なんか書いてます!」とは言いたいので、就活時期はずっと続けるかな。人事の人たちにも、このブログを見せる日が来るかも知れない。見て何を感じるのか。

今日はそんなところ。あと、日々読んでくださる方々、いつもありがとうございます。今後も「娯楽」のレベルに届くか届かないかというものを量産していきますので、よろしくお願いします。


少しだけ 春を感じた ニートデイ。最近思ったのは、歩行者信号の写真ってなんかいいなっていうこと。