見出し画像

#12 会話とコミュニケーション

11月23日。月曜日。今日は祝日らしい過ごし方をした。そういう日は書くことがあんまり思いつかない。
強いて言うならということで、今日は【会話】について書こうと思う。先に言っておくとめっちゃ長くなってしまった。長過ぎるよ。

今日の記録

午前、起きれず。14時、いまだ起きれず。ようやく起床、16時。フルグラ。眠気覚ましにスプラトゥーン。やりすぎた。気づけば20時。夕食。定食屋へ。

豚角煮定食ご飯並盛、のち、研究室。溜まっていた諸々の事務手続きを消化。その後、先輩のレジュメのチェック。こうしたほうがよいとのアドバイスを送る。いい御身分になったものだ。気づけば12時。昼まで寝た分、今夜は遅くまで眠れなさそうだ。

会話について

井上達夫、という人がいる。法哲学をやっている人なら、知らない者はいないだろう。
東大法学研究科の教授で、日本の法哲学界を牽引してきた人物である。僕は面識はないが、大先生も大先生だ。昨年あたりに定年で退官されている。

そんな井上先生が1986年に出された著書に、『共生の作法 ー会話としての正義ー』(創文社)というのがある。

いわゆる「正義論」の本である(正義論とはなにか、というのを解説しているサイトがあれば貼っておこうと思ったが、案外無かった。今度僕が作ってやろうか)。

この本の狙いはまず、「正義について議論することは可能なのだ」と論証することにある。我々は「正しさなんて人それぞれ。何が正義かとか、話し合っても意味ないよ」と考えがちである。
しかし、井上先生はこの見解を否定する。その辺の筋道は、こまごましているので立ち入らないけれど、要は「正義とはなにか(正義概念)について、私達は共通理解を持っている」ということがある。

正義概念の共通理解とはなにか。例えば我々は、自分にだけ例外を適用する者を許さない。「俺がマスクするかしないかは自由だけど、お前らは絶対にしろ」とかいう人がいたら、我々は鉄パイプで袋叩きにするだろう。
また、私達は「等しきものは等しく扱うべし」との感覚を持っている。点数は全く同じなのに、片方は合格、もう片方は鬼滅を観てないから不合格とされたら、それは「おかしい」と断罪される。なぜなら、合理的な理由のない区別を行っているからだ。
そんな感じで、我々は「等しいはずのものが不等に」扱われたとき、それを「不正・正義に反する」と捉えている

こんな感じで、井上先生の言う「正義概念」は現れる。それは「等しきものは等しく扱うべし」「自分にだけ例外を適用させるな」といった形で定式化されるものだ。
そして、こうした共通の正義概念があるからこそ、私達は、「何が正義で何が正義でないか」を議論することができる、ということ。
そんなわけで「正義について議論しても無駄」なんてのは嘘である。なぜなら、私達は実際に、「等しきものを等しく扱っているかどうか」という基準で、正・不正の判断を行っているではないか。そうした事実をまず認めましょうという話。やっぱりこまごました話になってしまった。

ここまでは別に大事じゃないんです。重要なのは井上先生が、「会話」を重視しているということ。井上先生は「会話」について、「コミュニケーション」と比較して次のように書いている。

しかし、会話はコミューニケイションではない。確かに会話はコミューニケイションが遂行される典型的な場である。しかし、第一に会話はコミューニケイションを伴わなくても会話であり得る。例えば、「おや、どちらまで」/「ちょっとそこまで」/「では気をつけて」という会話に置いては、情報交換や意思疎通が行われているわけではない。またこの会話は何ら感情的交流を伴うことなく「儀礼的」に営まれ得る。この会話をコミュニーケイションと呼ぶことは後者の概念を無意味化するほど拡張しない限り不可能であろう。
井上達夫(1986)『共生の作法』創文社、250頁

先生曰く、会話はコミュニケーションではないのである。何が違うん?
頑張って説明すると、コミュニケーションには目的がある。「情報交換」「意思疎通」だとか「感情的交流」といった目的である。例えば、「鬼滅の刃観た?」と言うとき、そこには次のような目的、すなわち「相手が鬼滅を観てるかどうか確かめる」という目的がある。ちなみに僕はまだ観ていません。

そして目的がある以上、そこには成功・失敗がある。上記の目的が達成されなければ、コミュニケーションは失敗したと言えるだろう。強調すると、コミュニケーションには失敗がある

対して、会話はそうではない。会話には、目的がないのである。「今日いい天気だね」と話しかけるとき、私達はなんとなくおしゃべりしているだけで、相手が今日の天気をどう思っているか「確かめよう」としているわけではない。そこに「情報交換」「意思疎通」といった目的はない。
「こんにちは」とか「おっす」とかもそう。言葉を交わすことそのものが目的であるといえるだろう。

それゆえに会話には失敗がない

これが今日言いたかったことである(長い道のりだったよ)。

失敗とは、達成したい目的が叶わなかった時に使う言葉である。会話にはそもそも、その目的がない。単に相手と言葉を交わすだけである(無視されたら失敗だけど)。
だから、相手と言葉のやり取りができれば、それだけで会話は成功である。たとえそのやり取りの先に何も生まれなくても、会話自体は成功しているのである。

* * *

僕がこの世で最も苦手とするもの、それは女子とのLINEである。そもそもLINEが苦手なのに、女子とのLINEときたら、それはもう苦手×苦手である。二重苦、dual tourmentsだ。

苦手な理由に、どうすれば正解なのかよくわからんということがある。例えば、最初の切り出しをどうすべきか。「おっす!」か「お疲れ様〜」か。相手の返信がやたら遅いのには、何か隠された意味があるのか。相手のリアクションがやたら曖昧なのは、つまりそういうことなのか(どういうことだ)。より効果的に相手の反応を引き出すにはどうすればよいのか、などなど。そういうところでいちいち悩む。

そして、相手から気のない返事が来たら、それはもう「はい!失敗!!」と反省タイムになる。

ただ、こういうのも「会話」と捉えれば気が楽になった、という話。言葉を交わす、それだけでよいのだと。やり取りの果てに向かう先とか、達成したい目的とか、そういうのはなくてもよいと。なんとなくLINEを送る、それで十分なんですよ、というのを、最近理解し始めました。

* * *

日を追うごとに長くなりがちなこの日記。前にも書いたけど、誰が読むんだ? まあでも、あんまり気にせず続けたいと思います。有益かどうかより、毎日続けるのが目標であるので。読んでくださった方はありがとう。