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#9 失恋と予定説について

11月20日。金曜日。今日で1週間も終わり。今週もよく頑張った。今日は、【予定説】に寄せてなんか書こうと思う。何を書くつもりなんだ。

今日の記録

9時頃起床。今日は気持ちよく起きることができたが、外は雨。外出がだるくなる。
午前、11時までスマブラ。朝のスマブラは、回線の調子が良いので好い。朝食、兼、昼食。13時からアルバイト。ほぼ座ってるだけ。来館者から、パソコンの不具合について質問あり。よくわからんが、再起動を促す。直った。「パソコンに詳しい方がいて助かった」と言われる。これはさすがに、僕がパソコンに詳しかった。


夜。学食でカレー。その後、研究室で勉強。ヘレナ・ローゼンブラット『リベラリズム 失われた歴史と現在』を読み始める。とにかく面白い。非常に面白い。翻訳が読みやすいのもある。2章の途中まで進む。気づけば10時過ぎ。

失恋とカルヴィニズム、二重予定説

先に断っておくと、別に失恋したわけではないです。

16世紀の宗教改革の旗手役、カルヴァンの主張に「予定説」というものがある。

私やあなたが神に救われるかどうかは、あらかじめ決まっています。皆さん、神の救いを得たくてあれこれやってるかもしれませんが、それは無意味です。なぜなら、神の救いを与えられるかどうかは、すでに宿命として決まっているから。現世でどれほどの徳を積んだかとかは、無関係なんです。

「二重予定説 dual predestination」などと呼ばれるものである。高校世界史ぐらいの知識しかないので、全然正確な理解ではないだろうが、そこまで大筋は外してないと思う。

予定説によれば、現世でどれだけの徳を積もうと、それは神の審判には影響しないということになる。逆に、どれだけ悪行を重ねようと赦される可能性があるということ。善人として徳を積み、いろんな人に施しを与えても、救いが得られるとは限らない。むしろ、その逆の者が救われるかもしれない。

なぜなのか? 結構理不尽な世界観ではないか?
(そしてこの延長で失恋を語れるのではないか、というのが今日の話)

その理不尽さの答えは、神の選択の絶対性にあるらしい。神は、絶対的存在である。その意志は何人の影響も受けることがない。我々の判断は、周囲の影響によって揺らいだりするものである。しかし神は我々と違って、常に、自身の意志のみで決定を行うことができる。誰を救い、誰を救わないかは、神が自由に決めることなのである。

逆を言えば、人間の行い、つまり善行を積みましたとか、徳を施しましたとかで、神の愛を操作しようとするのはおこがましい、ということでもある。「誰に愛を与えるかは神が自由に決めることで、あんたが何をしようが関係ないの!」ということ。神の愛・神の選択の絶対性ここにあり。

そして僕は、これは人間の恋愛にも言えるんじゃないかなあと思ってる。優しくしたとか、気遣いを見せたとか、親身に相談に乗ったとか、一緒に笑いあったとか、そういうのは全部、恋愛の成就とは無関係である。なぜなら、恋愛の成就は宿命的に決まっているから。我々がいかなる努力をしようが、そこに結果との必然的連関はない。最後に決めるのは相手であり、その選択は絶対的である。自分が何か徳を積んだからといって、相手の愛を操作できると考えるのは、おこがましいとさえ言える、ということ。

* * *

恋愛沙汰で失敗しても、自分を責めなくてもいいんですよという話。「自分が悪くて上手く行かなかった」とか考えるのは、単に間違ってるだけでなく、傲慢でもある。だって本当は宿命で決まっていることだから。
あと、「努力が足りなかった」と自分を責めるのも誤り。なぜなら、努力次第で相手の愛を操作できると考えるのは、おこがましいことだから。

ビートルズの「yesterday」で、次のような歌詞がある。

Why she had to go, I don't know, she wouldn't say. 
(彼女がどうして行ってしまったのか、僕にはわからない。彼女は何も言わなかったから)

彼女は何故行ってしまったのか。これの答えは、はい、そうです。宿命だからです


そんな感じ。僕は日々こうやって、自分とポール・マッカトニーを元気づけているよという話(本当は失恋の歌じゃないらしいけど)。今日は恋愛論になってしまいました。これ知り合いに見せられるのか? まあ、こういうのを議論してみても面白いだろうということで。単なるこじらせ日記ではないよ!