タタール歌謡概説:蓄音器の時代からサブスクの時代まで
タタール歌謡の世界で活動する歌手にとっては、その名も「タタールの歌」(Татар җыры)と題したコンサートに出演することがある種の人気のバロメータとなっている。このコンサートはタタール歌謡の祭典としては最大規模のもので、1999年から毎年カザンで開催されてきた。
コンサートは単なる歌の祭典にとどまらず、その年のタタール歌謡を代表する歌や歌手、アルバム、MV、作詞家、作曲家などの観点から審査員および観客によって評価されることから、その選出結果は毎年注目を集め、各部門で賞に選出されると大々的に表彰される。
この「タタールの歌」はタタールスタンのなかでも最も重要な文化行事のひとつに位置づけられ、年間予算は1,100万ルーブル(日本円にして約1800万円)と、数ある文化行事のなかでも多額の予算が割かれてきた。ところが、2020年は世界的なパンデミックの影響から、過去21年のなかで初めてコンサートが開催されない年となった。なかには「これを期にタタール歌謡界の停滞が始まるのではないか」と危惧する批評家もいたが、幸いにも2021年12月には22年目の「タタールの歌」が開催される予定となっている。(が、2021年11月現在のロシアでは再び感染拡大により様々な行事は中止や延期を余儀無くされているので、今回もどうなることやら…)
さて、前置きが長くなった。本稿では「タタールの歌」が来月無事に開催されることを願いつつ、タタール歌謡、とくにタタール・ポップスの発展と今日にいたるまでの歴史を概観していきたい。
1. タタール歌謡黎明期:蓄音機からラジオ局へ
タタール歌謡の歴史は、カザンで蓄音機が普及するようになった1910年代に遡ると考えてよいだろう。タタール人歌手による録音は希少性と芸術性の高さから国外で人気が高く、当時の大手2社であるフランスのパテ社(Pathé)と英国のグラモフォン社(Gramophone)によって録音・販売されていた。ただし、帝政末期の当時は公共の場で歌うことがイスラームの教義から外れるとして忌避される傾向にあったことから、歌い手を見つけるのにたいへん苦労したという話もある。
20世紀初頭に録音・販売されたもののなかで、とくに人気があったのはカミル・モチーギー(Камил Мотыйгый:1883-1941)の歌で、当時の音声をデジタル化したものはYouTubeでも味わうことができる。以下は、タタールを代表する詩人ガブドゥッラー・トゥカイ(Габдулла Тукай:1843-1886)による詩「サリム爺さん」(Сәлим бабай)に歌をつけたものである。
なお、この旋律は現在世界中のタタールによって広く歌われ、タタールスタン共和国の準国歌のような立ち位置にもある「トゥガン・テル」に後々継承されることとなる。(この詩はタタール世界にとって最も重要な詩であることから、以下に全訳を示す)
この当時に録音・販売された記録が残っているものとして、メリヤム・イスケンデル(Мәрьям Искәндәр)という女性歌手の名もあるが、残念ながら筆者は詳しい資料を持ち合わせていない。ただ、フランス国立図書館のデジタルライブラリーではパテ社による録音「ああ愛しい人」(Абау җаныем)が公開されており、当時の歌声を聴くことができる。
この当時の録音方法といえば、特殊な蝋盤に接続されたラッパに向かって音声を吹き込み、その振動が蝋盤に溝を作ることで記録するというものだった。
それから十数年後、1927年にカザンでラジオ局が開局し、放送を開始すると、初期のタタール歌謡の発展に大きな影響を与えることになった。それまで歌といえば、基本的には演奏会で聴くものだったが(前述のレコードは主に海外で販売されたものであり、当初カザンで入手できたのは一部の裕福な商人に限られた)、ラジオ放送により多くの人が自宅などで好きな音楽を聴くことができるようになった。
1937年にガブドゥッラー・トゥカイ記念フィルハーモニー楽団(現在のトゥカイ記念国立タタールフィルハーモニー交響楽団)が設立されたことも、タタール歌謡の形成にとって重要な出来事となった。当時は管弦楽部門だけでなく、民族楽器によるオーケストラ部門や、タタール語で歌う合唱部門、ポップス部門なども編成されていたという。
楽団はまず、当時ハルビンで活躍していたオレグ・ルンドストレム(Олег Лундстрем:1916-2005)が率いるジャズオーケストラを迎え、これはカザンの人々のあいだでたいへんな人気を博した。その後、楽団はのちに名歌手として名を馳せたイルハム・シャキロフ(Илһам Шакиров:1935-2019)や、アルフィヤ・アヴザロワ(Әлфия Авзалова:1933-2017)といった歌手を専属ソリストとして採用し、かれらはやがてソ連領内のタタール人口の多い地域を中心にソ連各地をまわるようになっていった。
2. 国外ポピュラー音楽とタタール歌謡の発展
ソ連時代のタタール歌謡に注目してみよう。帝政期まではタタールのあいだでもユーラシアの諸民族にみられるような鉄製の口琴(Кубыз)や、西アジアなどにもみられるダブルリード型の木管楽器(сурнай)、カザフのドンブラと似た2〜3弦の撥弦楽器(думбыра)*1 などを使った演奏が一般的だったが、これらはやがてガルムン(гармун)に取って代わられてしまった。
この頃に商人によってもたらされた蛇腹楽器のガルムンは、1930-40年頃にはタタール音楽にとってなくてはならない存在となっていった。ガルムンの性能や奏者の技術の向上により、やがてガルムンだけで複雑な伴奏も主旋律も担えるようになったためである。ゆえに、古くからあったドゥンブィラや口琴は徐々にその立場を追われるように、姿を消していった。
ソ連時代のタタール歌謡は、ガルムンを使って"タタール的情緒"を演出したものと、外国のポピュラー音楽をアレンジしたものとに分けられる。例えば、イルハム・シャキロフが1960年代から1970年代にかけて録音した曲を聴くと、当時の新しいロックやポップス、フォークに精通していたことがよくわかる。なかでも有名な「ヴォルガ川ほとりの白樺」(Идел буе каеннары)という曲は、The Doorsの「Hello, I Love You」のリフで始まることから、近年ロシア国外でも密かに注目を集めているらしい。
ガルムンを使った歌謡と、バンドをバックにした歌謡は、ソ連末期の頃までほとんど交わることはなかった。とりわけ停電が多かった村落部ではガルムンを使った歌のほうが喜ばれ、都市部ではバンドをバックに歌ったシャキロフも、村落部ではガルムン奏者とともにマイクを使わない昔ながらの唱法で歌っていたことは現在も広く知られるところである。
さらに今日のタタール・ポップスへとつながるアレンジの開発・発展は、カザンで最初のВИА *2 となる「Орфей」のリーダーで、作曲家のヴァディム・ウスマノフ(Вадим Усманов)の功績によるところが大きい。ウスマノフはシャキロフのもとでも演奏し、のちにフィルハーモニー楽団のディレクターも務めた人物である。
ウスマノフはソ連国外のポピュラー音楽にも精通していたことから、60年代から70年代のシャキロフの歌にはリズム&ブルース(R&B)を、80年代にはシンセサイザーを駆使したアレンジをいち早く取り入れていた。以下では「Орфей」の代表曲のひとつ「夏よおまえはどこにいるの」(Где ты, лето?)を紹介する。(なお、この歌はロシア語で歌われている)
なお、当時はロシア語で歌うタタール歌手は非常に限られていたが、例外的にロシア語で多くの歌をリリースしていたのがレナト・イブラギモフ(Ренат Ибрагимов:1947-)である。イブラギモフにはタタール語のレパートリーも少なくないが、モスクワでキャリアを積んだことからロシア語のレパートリーのほうがはるかに多い。
3. タタール歌謡とシンセサイザーの邂逅
1980年代後半には、タタール歌謡にもシンセサイザーが次々と取り入れられるようになった。前述のウスマノフが率いるバンドのメンバーであったセルゲイ・ルィチコフ(Сергей Рычков)は、1991年にリリースされたヴェネラ・ガニエワ(Венера Ганиева)の楽曲「婚礼衣装」(Туй күлмәге)での演奏と録音について、ごく最近ラジオの中で以下のように語っている。
世界的にアマチュアの音楽制作に適したシンセサイザーの大量生産が始まったのは、1980年代前半のことである。ただし、ソ連の音楽シーンでシンセサイザーが一般的に使われるようになったのは、それからやや遅れて1980年代後半のことであった。
カザン音楽院のヴァディム・デュラト=アレエフ氏(Вадим Дулат-Алеев)は、1990年代前半にはタタール歌謡のなかにもシンセサイザーとガルムンを組み合わせた楽曲が徐々にリリースされるようになり、のちにタタール民族文化の復興の流れと重なることになった、と指摘する。
ただし、シンセサイザーが登場したころは、ガルムンと組み合わせて編曲することは「ナンセンス」だと考えられていたようで、当時ウスマノフと並んで活躍した作曲家レゼダ・アヒヤロワ(Резеда Ахиярова)は「私は好きじゃない、ナンセンスだもの」と批判している。
例えば、1983年リリースのヴァフィラ・グィザトゥッリナ(Вафирә Гыйззәтуллина)による「私に恋して」(Гашыйк бул син миңа)のなかでは、バックにギターやドラム、ピアノからなるバンドは確認できるものの、まだシンセサイザーは使われていない。
それから約10年後となる、1992年に行われたサラヴァト・フェトヘッディノフ(Салават Фәтхетдинов)のコンサートの動画を見てみると、2台のガルムンとシンセサイザー(ただし多用はされていない)が使用されている様子が窺える。
4. "自活"時代の到来
ソ連解体後となる1990年代前半になると、アーティストは徐々に自身のコンサートを開いたり、自身のレーベルからCDを発売するなどして、自活をするようになっていく。むしろ、時代の流れとともに自活せざるを得なくなっていった、とも言えるかもしれない。
ソ連期に活躍した歌手の多くは前述のフィルハーモニー楽団などに所属し、コンサートなどは基本的に楽団が企画・運営していたし、そうした楽団には国からの補助金があった。ところがソ連が解体されるとロシア経済は混乱の時代へと突入し、これまで通りの補助金は期待できなくなったためである *3。
経済的な混乱の波はバンド編成にも見ることができる。この当時、最も成功したバンド編成は「小さなグループ」で、素朴な機材で"まともに聞こえること"を目指したさまざまな工夫があった。多くみられたのは、1人の歌手、1人のガルムン奏者、1人のシンセサイザー奏者の組み合わせで、当初は「ナンセンス」だとされたガルムンとシンセサイザーの組み合わせも一般的になっていった。(例えば上記の動画は1993年、サラヴァト・フェトヘッディノフが1台のガルムン奏者と1人のシンセサイザー奏者をバックに歌っている)
また、この頃から見られるようになった特徴のひとつに、スタジオ収録時とコンサート時とで異なるミュージシャン(バンドメンバー)が雇われるようになった、という点がある。収録の際には超一流のミュージシャンを雇うものの、報酬が高額のため、多くの歌手はショーのときには"そこそこの"腕のミュージシャン(その報酬の相場は収録時に雇うミュージシャンの半額程度が目安とされた)を雇うようになった。
コンサートで「マイナス」(収録音源に歌を乗せていない、いわゆるカラオケ用音源)や「プラス」(収録音源そのもの、つまり口パクとなる)といった、スタジオ収録音源が頻繁に使用されるようになったのもこの頃である。
この頃から顕著に見られるようになったこれらの特徴は、当時の経済的状況にも起因すると考えられる。「マイナス」や「プラス」の音源は、経済状況が上向きとなった現在もよくコンサートで使われている。
ただし、ソ連期から現在にいたるまで大きく変わらない特徴もある。
そのひとつは、よく歌われるテーマである。ソ連期から現在にいたるまで、愛(мәхәббәт)と恋(гашыйк)、家族(гаилә)、母(әни)、生まれ故郷の村(туган авыл)は不動のテーマであり続けてきた。
最近のタタール・ポップスに頻出する語とテーマについては、以前公開した記事「タタール音楽の歩き方:タタールポップスに頻出する単語とともに読み解く」を参照されたい。
やがて経済状況が少しずつ上向きになり始めた2000年代以降には、多くのバンドやダンサーを起用した、煌びやかなステージ演出が目立つようになっていった。こうした演出は非常に費用がかさむことから、現在においてもトップスターのコンサートだけに限られている。たとえば前述のグゼル・ウラゾワやエルヴィン・グレイはその代表格である。
今日、平均的なタタール歌手が曲をリリースするにあたり必要となる支出項目は以下の通りである。近年、有名歌手のほとんどはレーベル等には属さず、自らのレーベルや事務所を立ち上げるなどしている。(詳細は後述)
例えば、自身のコンサートで多くのダンサーをステージに起用することで知られているイルスヤ・バドレッディノワ(Илсөя Бәдретдинова)のコンサートでの一幕を見てみよう。非常に多くのダンサーやアーティストを起用し、ステージ演出もかなりと煌びやかであることが見てとれる。
新世代のタタール歌謡を象徴するのは、バシキール出自のラディク・ユリヤクシン(Радик Юлъяҡшин)で、ここまでに本稿でも何度か登場した「エルヴィン・グレイ」というステージネームで活動している。
エルヴィン・グレイの音楽は従来のタタール歌謡とは一線を画す。派手なイメージとダンサブルな曲調を特徴としていて、ガルムンの出番はほとんどない。SNSでも多くのフォロワーを獲得し、とくに若い世代をターゲットとしながら、「かっこいい」「イケている」新しい世代のタタール音楽旋風を起こし始めている。
5. メディアとタタール歌謡
ソ連解体直後の1990年代、タタール歌手たちは主にショー出演と音楽カセットの販売で収入を得ていた。経済的に困難な時代を抜けつつあった1999年、当時のタタールスタンで最も経済的に余裕があったメディアグループ会社「バルス・メディア」(Барс Медиа)は共和国で初めてとなるプロダクション事務所を兼ねたレコード会社「バルス・レコルドス」を設立した。これにより、多くの歌手がバルス・レコルドスの所属となった。(そこからのちに独立して"自活"できるようになった歌手も多い)
そのバルス・メディアが同年1999年から始めたのが、冒頭で取り上げた「タタールの歌」(Татар җыры)であった。開催期間は5日間と非常に大規模で、この規模の商業的な歌の祭典としては共和国で初めての取り組みとなった。
2001年にはタタール音楽に特化した24時間ラジオ放送局「タタール・ラジオ」(Татар радиосы)を開局した。「タタール・ラジオ」は現在タタール語のラジオ放送局のなかで最も高い視聴率を誇っており、公式ページではオンライン放送を視聴することもできる。
タタール語のラジオ放送については、以下の記事「耳が旅する自由はある:オンラインラジオ生活のすすめ」を参照されたい。
2012年には若者向けに初のタタール・ポップス専門チャンネルとなる「TMTV」を開設しており(日本からもYouTubeで生放送を視聴できる)、とりわけカフェやレストランの店内スクリーンで流すのに根強い人気がある。「バルス・メディア」の強みは、楽曲のレコーディング、MVの撮影、コンサートの開催、独自の音楽賞の授与によるプロモーションなど、手堅いショービジネスのルールに則って地元のアーティストをプロモーションできる点にある。
「バルス・メディア」の最大のライバルはタタールスタン共和国の国営放送局である「新世紀」社(«Яңа Гасыр» телерадиокомпаниясе)である。同社は2002年に国営テレビ放送チャンネル「ТНВ」(Татарстан - Новый Век)を軸に、タタールスタン共和国全土および周辺共和国、近年では衛星放送を通じて世界各地に最新のタタール音楽を放送するようになった。
同時にラジオ局「新世紀」(Яңа Гасыр)を設立し、10年後には「ボルガル・ラジオ」(Болгар радиосы)と改称した。同局の最大の強みは、FMバンドでタタールスタン共和国領域内を100%カバーしている点で、このラジオもまた前述の「タタール・ラジオ」に次いで人気が高い。近年ではTMTVに対抗してタタール・ポップス専門チャンネル「マイダン」(Mәidan)を開設しており、人気を争っている。
6. コロナ禍でタタール歌手はいかにして食っていくか
今日のタタール歌手の主な収入源は、ショーへの出演、ソロコンサート、企業パーティ、公式行事の開閉会式への出演、個人の結婚式、誕生日などである。
2020年冬にタタールスタン共和国のメディア「レアリノエ・ヴレーミャ」(Реальное время)が報じたところによると、現在のタタール歌謡界で最も高額なアーティストはエルヴィン・グレイで、1時間のショーを依頼すると70万ルーブル(日本円で120万円弱)かかる。第2位はリシャット・トゥフヴァットゥッリン(Ришат Төхвәтуллин)で45分間のショーに50万ルーブル(80万円程度)、第3位はサラヴァト・フェトヘッディノフで40分間のショーに35万ルーブル(55万円程度)が標準のようだ。
そのほか、近年ではSNSでの活動も貴重な収入源となっている。とりわけYouTubeやInstagramの公式チャンネルでの動画公開やライブ配信は、これまでタタール世界だけに限られていた収入の可能性を一気にグローバルなレベルにまで引き上げた。近年とくに「バズった」楽曲のMVのコメント欄を見ると、タタール語やロシア語だけでなく、さまざまなテュルク諸語、なかには英語やフランス語、アラビア語などのコメントも見られるようになり、聴き手の幅を一気に拡大することになった。
また、前述のように歌手が自身の事務所とレーベルを設立する例も相次いでいる。実際に、特に大物歌手の多くは今では「バルス・レコルドス」のような大手レーベルやプロモーションは必要としておらず、その背景には"自活"できるようになってきたことがある。例えばグゼル・ウラゾワ(Гүзәл Уразова)は2021年11月現在、Instagramに61万6千人のフォロワーがおり、彼女自身も筆者の聞き取りに「SNSでの広告収入のおかげでより洗練された楽曲やMVを制作できるようになった」と語った。(2021年10月)
しかしながら、新型コロナウイルス(COVID-19)が猛威を振るう時代において自活できる歌手はごくひと握りで、収入が大幅に減ってどうにもならない歌手のほうが大多数であろう。以前であれば、新年パーティ、国際婦人デー、結婚式ラッシュと続き、秋にはコンサートやショーで稼ぐことができたが、コロナ禍により密になる空間はロシアでも避けられるようになった。
例えば近年若者のあいだで人気の歌手のひとりフィルドゥス・チャマエフ(Фирдүс Тямаев)は、コンサートができない期間はNLインターナショナル(ロシアをはじめ旧ソ連諸国で人気のネットワークビジネス、いわゆる"マルチ"である)で収入を得るようになったと自身の生放送ライブで語った。
チャマエフのような有名で人気の歌手ですら別の収入源を探さなければならない状況だとすれば、そこまで有名でない歌手にはいったいどんな道が残されているというのだろうか。2020年3月にИнтертатが報じたところによれば、現在のタタール歌謡界には800から1000人もの歌手がいると推定している。残念ながらコロナ禍で歌手活動を断念せざるを得ない歌手も、少なからず生まれる(あるいは既に生まれている)であろう…
最近は活動の場をYouTubeやInstagramはもちろん、SpotifyやApple Musicといった定額音楽配信サービス(サブスク)にまで広げる歌手も目に見えて増えてきた。たとえばごく最近Spotifyでの配信を始めたフィルス・カヒロフ(Филүс Каһиров)は「タタールの市場だけを見ていては、正直なところ、経済的にも将来的にも可能性が狭まるかもしれないので、ロシア国内外を問わず誰かの目にとまってほしい」と語る。(2021年10月)
どうかパンデミックに負けず、タタール歌謡界が今後も発展を続けることを願ってやまない。