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畳の歴史から、畳という文化をあぶり出す。

畳の歴史はとても古く、ハッキリとした答えが分かっていないのです(スミマセン)、それも謎めいていて畳の魅力の一つかもしれません。
我が組合の方でも、簡単な歴史はまとめています。

あらゆる文化が中国大陸より入ってきた縄文時代から弥生時代。ここで「畳」というものが作られていったのではないかと思います。しかし、畳というのは中国にはないです。ですので、畳は日本で成形されていったのでしょう。弥生時代は紀元前300─紀元後300くらい、稲作が発展した時代です。
なぜ、畳が必要だったのか。これは古事記にもありますように、尊い方を地べたに座らせることが出来なかったためです。科学的にも昔の日本は今より建築技術、中でも湿度管理が難しかったため、家はカビやダニ、虫などの温床になっていたことでしょう。そんな時に、畳という敷物は「おもてなし」という礼儀そして科学的な防衛の意味もあり、使われていったのではないかと思います。
プロダクト的にも弥生時代に盛んになった稲作の文化が、畳の芯材であった藁の相性が抜群であったことも畳が畳と成った必然性に感じます。身分という格差が生まれ、様式が花開きました。それが今から1300年ほど前になります。

それから畳は、ゆっくりと現代の畳へと変わっていったのでしょう。現代の人は驚くかもしれませんが、畳というのは神事においても密接な関係にあります。五穀豊穣の精神が盛んだった時代を経て、畳はより畳となり、今でいう「畳屋」の数も増え、価格も均一化され、江戸時代中期には、武家や大店からでしょうけど、一般の住宅にも普及していきました。

その時の畳における時代背景がわかる書物(漫画)が上記の「元禄畳奉行の日記」です。
尾張徳川家に二百五十年間秘匿されてきた『鸚鵡籠中記』という稀有の日記がある。 筆者は御畳奉行朝日文左衛門。 知行百石役料四十俵、元禄に生きた、酒好き女好き芝居好きのありふれた侍だが、好奇心旺盛で無類の記録マニア、当時の世相を赤裸々に書きとめて倦むことなく、二十七年に及ぶ。
と、あり畳というよりは伝記や風土記に近いので、畳のことはそんなに書いてありません。
元禄9年(1696年)畳奉行が設置され「江戸城、役所の畳の新調・修繕・保管」が主な業務だったようです。畳奉行ですので武士である旗本が管理していました。

徳川綱吉。畳の上に座っている?

営繕という考えもあり、大工(作事奉行)を筆頭に各建物に関する組織が出来上がっていました。この時代において既に畳というプロダクトの必要性は高かったようですね。
またもう一つ花開いた要素の一つは「茶道」でしょう。千利休が茶道を形式化し、侘び錆びの極致である茶室に畳は無くてはならない存在になったということも、畳の発展に寄与しています。千利休(1522-1591)

千利休の茶室・侍庵(復元)

それから江戸時代は明治、大正と向かいます。
畳は、神事から庶民の文化となり今に至ります。あっという間の1300年でしたが、いかがだったでしょうか。総じて分からない、というのはまだ畳について神秘な部分があるからに他なりません。
しつこいようですが、私たちはこの稀有な畳というプロダクトを未来に繋げるために活動していきます。

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