「レイシズムとは何か」を読んで
「わいわい通信」2022年1月号の記事です。
「レイシズムとは何か」(梁英聖 2020年11月 ちくま新書)を読んだ。「日本には差別とたたかう社会規範がないのだ」(p12)という、著者の厳しい指摘の下、レイシズムとは何か?日本でなぜレイシズム、ヘイトスピーチ、ヘイトクライムがはびこっているのか?ということが、余すとこなく書かれた本である。
まず「反差別」とは何だろう?
①反差別とは被害者の権利を守ることだ。当事者に寄り添うのが反差別だ。
②反差別とは加害者の差別を止めることだ。差別行為を禁止するのが反差別だ。(p12)
「日本では多くの人が①は認めるまでも、②を認めようとする人は少ない。しかし欧米における反差別は、①と②が車の両輪となっている。日本の反差別は②の差別行為の禁止がないまま①被害者に寄り添おうとする、加害者の差別する自由を守る限りでしか、差別される被害者の人権を守ろうとしない日本の反差別こそ、日本で反レイシズム規範形成を妨げ、日本人=日系日本人という人種の癒着を切り離せない現況である。これを日本型反差別と呼んでおこう。」(p13)と著者は批判している。
「レイシズム」は「人種主義」あるいは直接「人種差別」と訳されるが、ヒト=ホモ・サピエンスは1種類しかなく、白人や黒人といった「人種」は後から差別するためにつくられた概念である。したがって日本における在日韓国・朝鮮人に対する差別を、これは同じ「黄色人種」の中で起こっている「民族差別」であって「人種差別」ではない…だから日本に「レイシズム」ない…とするのも誤りだ!この「人種差別」の歴史も本書の中では展開されている。筆者は「レイシズムはありもしない人種をつくりあげ人間を分断する人種化を行う。人口にとっての生物学的危険として劣等人種をつくりあげ、社会防衛を掲げてその人種を排除し、最終的には殺そうとする。短くいえばこうなる。レイシズムとは、人種化して殺す(殺させる)権力である。」(p15)と定義している。
人が持っている偏見や差別をする気持ちが、実際に差別行為を行いうこと、さらには暴力やジェノサイドまで発展するのは「差別アクセル」と呼ばれる社会的条件が働くからである。差別アクセルとは具体的には利害関係(例えば就職や結婚で不利益を蒙るとか)や差別扇動がそれにあたる。ヘイトスピーチや差別行為そのものは差別扇動であり、国家や極右が直接・間接に行う差別扇動もある。レイシズムを国際社会が放置したことがファシズム台頭を招いたという歴史的教訓から、国連の目的は反レイシズムでもある。「人種、性、言語、宗教による差別なく、すべての者のために人権と基本的自由を尊重するよう助長奨励する点で、国際協力を達成すること」(国連憲章第一章三項)があり、人種差別撤廃条約が一九六五年に作成・採択され、二十七か国の批准で一九六九年に発行している。
レイシズムを押しとどめるための具体的な四つの「反差別ブレーキ」として ①禁止するための差別の定義 ②人種の否定 ③差別扇動と極右の規制 ④国家の差別扇動への対抗 があげられる。欧米では六~七十年代初にかけて基準となる反レイシズム規範が成立(反レイシズム「1.0」)し、その後のアップデート(反レイシズム「2.0」)が実際の反差別運動、公民権運動の力で勝ち取られているが、日本型反差別運動では1.0の段階でさえ達成できていないのが現実だ。
なぜ日本と欧州で反レイシズム規範の成立が違うのか?ドイツを例にとると、冷戦中も仇敵フランスや英国と和解し、ECという経済共同体をつくり、さらには被害国イスラエルと友好関係を築かねばならない中で反ナチ規範が形成された。それに対し日本は「東アジア冷戦構造」の中、米国のアジア戦略に規定されるかたちで、昭和天皇戦争責任の曖昧化があり、強大な米国をハブにした二国間安保体制の「足し算」(日米安保、韓米、比米…)に依存したこと、被害国(中国・朝鮮・ベトナム)は無視できる東側陣営となり、西側陣営の国々(韓国・台湾・フィリピン)は米国の圧力で戦後補償要求を押さえつけることができたことが、反ナチ規範に類する反レイシズム規範をつくるよう強いられなかったためである。
加えて日本政府は台湾、朝鮮の旧植民地出身者を、五二年体制ともいうべき出入国管理令(入管法)、外国人登録法(外登法)、法律第一二六号(法一二六)を柱とする入管法制で無国籍者扱いとし、事実上の「難民以下」の法的地位に落とした。日本は植民地時代、GHQ時代、五二年以後一貫して朝鮮人を人種化して日本人と分けるレイシズム政策が貫徹しており、それを国籍と戸籍の二つの制度によって支えてきた。また日本のレイシズムは公的な体系性をもった明示的プランではなく、国籍と戸籍を恣意的に使い分け、官憲の広範な裁量に依拠したものでもある。なぜこれと闘えなかったか?ひとつは南北分断で在日コリアンも分断され、本国のネイションの一員として政治に関与することが社会運動の課題となったため、日本国内での「公民権」(シティズンシップ)を闘い取ることは問題にならなかったこと。もうひとつは日本の市民運動や他の反差別運動も加害者の差別する自由を社会正義によって規制するのではなく、被害者支援を通じて人権回復を訴えるというスタイルであったため、普遍的な差別禁止法を闘い取るという目標を掲げなかったからである。
「今日の日本のレイシズムは戦後最悪であり、しかもそれまでと異なる二一世紀的特質を持つ。かつての植民地支配での旧型レイシズムと連続性を持ちつつも、在特会が組織活動をはじめた二〇〇一年代後半からはまったく新しいタイプの差別扇動メカニズムが駆動しているのである。」(p197)と筆者は警告している。六~七十年代には国士館高校・大学を拠点とする極右組織による意図的な朝鮮高校生への襲撃があり、九十年代には政治やマスコミの差別扇動によって、一般人による女性・子どもに向けたチマチョゴリ切り裂き事件が起こった。そして政治による差別扇動が自然発生的に草の根の極右を組織するまでに拡大した結果、在特会のような新しい極右勢力が生まれている。極右がSNS、街宣、後援会や出版物などを通じて「普通の人」のレイシズム暴力を大々的に扇動している。そして日本には反極右という反差別ブレーキが存在しないため、極右になることのハードルが恐ろしく低く、また極右にならなくとも自民党や保守的市民として簡単に差別ができる。欧州なら犯罪になるような人種差別でさえ、絶対的安全圏から遊び半分で加担することができる一方、差別するのに飽きたり嫌になったり、あるいはごく小規模での抗議にあえばその活動は後退する。だから決定的に重要なことは極右活動へのカウンターとヘイトウォッチである。極右・へイトクライム・レイシズムの監視活動が、欧米では重要な反レイシズム実践となっており、継続して極右やレイシズムのデータを収集し分析し公表することで、差別と極右台頭の危険性を社会に可視化させている。またこのようなヘイトウォッチは市民社会が行うだけでなく、ドイツのように国や行政が極右規制として行うべきものであると述べている。
レイシズムとナショナリズムは互いに補完しあう関係にあり、レイシズムは過激なナショナリズムの産物などではなく「正常な」ナショナリズムに内在的なもので、ナショナリズムが存在する限、レイシズムも存在し続ける。だが反レイシズムによってシティズンシップを脱国民化されたものに変えてゆくことで、ナショナリズムとレイシズムの矛盾をふかめる実践的方向性が提示されるとしている。またレイシズムとセクシズムが一体化しているインターセクショナリティ(交差性)の問題や、資本主義がレイシズムを強化させる問題も本書ではとりあげられている。資本主義というシステムを変えない限り、レイシズムはナショナリズムと結びついて国民国家を支えるし、労働力再生産装置としての家族ナショナリズムに結びついたセクシズムと根がらみになり、労働者階級を分断し支配するのである。BLM運動は従来の反レイシズムと異なり①資本主義批判②気候正義要求③インターセクショナリティ④植民地主義批判⑤監獄・警察廃止などの革新的要求を伴っている。「私たちは同時代人として、この運動に触発されつつ、どのように日本であるいはアジアで反レイシズムを闘い取って連帯していくかが問われている。」(p302)と結ばれている。
朝鮮学校の無償化除外が当たり前のように続き、公然とコリアタウンでヘイトスピーチが行われている。また技能実習や留学生のアルバイト名目で外国人労働力を当てにする一方、外国人の定住や権利の保護はないがしろにされ、入管施設では暴力や虐待がまかり通っている日本で、真の意味で反差別運動にとりくみ、反レイシズム規範を確立していく闘いが求められている。反差別を掲げる左翼、活動家は絶対に読むべき本である。