幼少期
わたしは看護師です。
小学校1年生の時からの夢で、頑張って頑張って勉強して夢が叶い、看護師になりました。
小さい頃から、ごっこ遊びはいつも『病院ごっこ』。
うさぎのお人形を患者さんに見立てて、わたしは看護師さん。お医者はいません。うさぎの患者さんは毎日病院に手当をしに来ます。怪我したところを包帯で巻いてあげたり、マッサージしてあげたり。時には話を聞いてあげて悩み相談もします。
周りの大人には『また病院ごっこしてるの。』と飽きられる程、本当に毎日してました。
ある時から食事が思うように摂れなくなって、みんなみたいに上手に体を動かすことができなくなっちゃいました。いつしかご飯を1口をやっとのことで食べるくらいになって、近所の病院行ったら大学病院への受診を勧められて紹介状を持って母と行きました。
痛い検査をたくさんして、後日結果を聞きに病院へ行くとそのまま入院することになりました。
小1の6月頃でした。
入院すると決まった日、病室までの案内までの間に入った院内のうどん屋さんで泣いた覚えがあります。今までで一番胸が苦しくて味わえなかったうどんでした。
同じ病で戦っている人達がこちらをみているかもしれないので診断名は伏せますが、珍しい疾患で中部地方ではそこの大学病院でしか治療ができないとのことでした。
入院生活は幼いわたしにとって壮絶でした。何度も腕に注射をされるのはもちろん、全身に電流を当てられて神経を調べる検査や脊椎に針を刺してする検査、麻酔で眠らされて踵から神経を取る手術もしました。
ステロイドで顔が浮腫んで『ムーンフェイス』と呼ばれる副作用で顔がパンパンで。毛深くもなり、容姿を気にし始める女の子としては本当に辛かったです。
1年半にも及ぶ入院生活。小学生にとっての1年半は大きいです。同じ年代の元気な子は、外で走って勉強して、学校で友達と話して放課は遊んで、時々悪さして先生に怒られて。家に帰って家族みんなで食事してお風呂に入って寝る。朝になったら通学団で歩いて学校に行く。そんな当たり前の日常はわたしにはありませんでした。
とは言っても、長期の入院生活なのでその間、院内で勉強ができるように院内学級に通っていました。院内学級では体調優先で勉強を進めることができます。また、色々な年代の子がいるので黒板形式ではなくて、先生がマンツーマンで教えてくれます。体がだるかったら病室まで先生が来てくれて、ベッドの上で休まながら教えてくれたりもしてくれることもあります。院内学級を通じて友達もたくさんできました。
小児科病棟にはわたしと同じ病に苦しんでいる子が多くはいませんが数人いました。それでもお互いを励まし合って苦しい治療や痛い検査を頑張って探していました。
ある日1番仲のよかった同い年の友達が院内学級に来れなくなっちゃいました。その子の病室にお見舞いに行こうとしましたが、大部屋から個室病棟へ移動していて『面会謝絶』の札が入り口にかかっていて会えません。それでも会って話したくて、部屋の外から『ゆきちゃーん、いますかー?』と声をかけました。
でも出てきたのはゆきちゃんのお母さん。
『来てくれてありがとう。ゆきちゃんね、今体が辛くて頑張ってるから、また元気になったら一緒に遊んであげてね。』
ほんの少しあいた扉の隙間から見えたのは、無菌状態にされた部屋の中で酸素マスクをつけて目を瞑って横になっているゆきちゃんの姿でした。
次の日、ゆきちゃんの病室の前へ行くとお部屋が空っぽでした。
また病室が変わったのかと思い、病棟内を歩き回って一つ一つゆきちゃんの名前を探しましたが、ありませんでした。
幼いながらにその状況が感じとれました。
お母さんに涙を流しながら『ゆきちゃんがいなくなっちゃった』と話すと、『ゆきちゃんはお空であなたのこと応援してくれてるよ』と言いました。
入院して1か月。初めての友達の死を体験しました。
それから、わたしは目の前の人が居なくなることが怖くなり、友達が出来ても、母に
『あの子はいつ死んじゃうの?』
と聞いていました。
わたしは幼い頃、そんな経験をしていました。
ちなみに…今では再発もなく完治して、すっかり健康体になり主人と出会い結婚して、3人の子宝にも恵まれて過ごしています。食欲もしっかりあり健康体すぎる体です笑。