見出し画像

第19回 森鴎外からさだまさしへ

こんにちは、Vibrence建物とまち担当のタツです。
今回は仕事で最近まで行くことの多かった湯島界隈を小説や歌から建築を見ていきたいと思います。
森鴎外の「雁」を最近読んでみたら、いつも言ってる場所がその舞台設定だったの気づいて一度歩いてみたいものだと歩いてみました。
まずは雁の主人公たちが通っていた東大医学部周辺までと、坂をせっせと登っていくと

広報センター


広報センター近接

何事もなかったかのように岸田日出刀の広報センターがお出迎えです。岸田日出刀は丹下健三、前川國男といった東大の巨匠の師匠でもあり、安田講堂の設計者でもあります。この広報センターは夜間診療所として1926年に完成、のちに改修されてい現状となっているようです。アールデコ様式と言うべきなんでしょうか、後のモダニズムを内包する小品として凛とした佇まいで建っています。後ろにはどこかでみたようなボリューム感で山梨文化会館なんなら現都庁も想起させませんか?


広報センターから第一本部棟を望む


第一本部棟と第二本部棟
第二本部棟

まさにメガストラクチャー時代の丹下さん。四方に立つコアで構造持たせてるんだろうなぁって一目でわかります。初期のコルビュジエっぽさから脱却して白井さんと縄文弥生論争やってた頃か?と妄想しながら見ていました。
ファザードの横に伸びる連装が表層的な表現をとりはじめてる等、時代が変わりはじめてますよね。
森鴎外の頃にはこれらの近代建築はなかったんでしょうが、東大医学部の門を後にして広小路方面にぶらぶらと坂を下っていきます。

坂の向こうに
医学部棟

塀の向こうには内田祥三の東大医学部等が見えます。勘違いがいくつかあって今回正確に調べたら、僕らがよく知っている東大建築構法の権威、内田祥哉先生は祥三先生の息子さんだったようです。親子で東大の建築学部の教授をやられると言うのはなんだかすごい話で驚きますし、生まれた瞬間に全てを持っていたわけではない身としては絶望も感じます。ちなみに祥哉先生の夭折されたお兄さんも東大建築の先生だったようです。
祥哉先生は原広司や高橋靗一、隈研吾といいったスター建築家の指導教授でもあります。

東大を抜けていく
この辺りが主人公の住んでたあたりらしいです
薩摩藩にもゆかりが

流石に派手な話だらけの東大からぶらぶらと坂を下っていくと雁の舞台らしきあたりに。さてその昔「翔ぶが如く」で桐野さんが住んでいた屋敷が!岩崎邸を右手に現れてきます。この道あたりでわざとらしく道掃除をしながら医学生に色目をつかう若きお妾さんがいたんでしょうね。


無縁坂

岩崎邸の前の坂は「無縁坂」、雁の登場人物が上り下りした薄暗き坂ですが、この坂の存在を教えてくれたのはさだまさしだったと言う人も多いのではないでしょうか。
子供の頃、お母さんに連れてこられたと言う妄想をここで歌を歌いながらしてしまいます(後ろを見るなって寺山修司の「さらば、ハイセイコー」かこの歌ですよね)。



岩崎邸への道


国立近代建築資料館

岩崎邸の中には国立近代建築資料館も併設されておりよく展示を見にきます。無料ですし皆さんも一度立ち寄るといいかと思います、岩崎邸を通るとそっちの入館料取られるというトラップもありますが、初めての時はその見学も兼ねるといいかもしれません。

さて、雁の散歩はこのあと不忍池や広小路へとつながっていくはずですがそれはまた次の機会にと言うことで。ここに初めてきた時の疑問、なぜさだまさしは無縁坂を知っていたのか?と言うことです。微かな記憶だとバイオリンの修行のために上京して住んでいたのは隅田川沿いでここら辺とは微妙に土地勘が違うのに、


湯島天神


天神様といえば梅

これはすぐそばにある湯島天神の梅祭りのときにふらっとお参りした時のものです。はて、天神様といえば梅、飛梅の伝説です。道真公の
「東風吹かば 思い起こせよ 梅の花 主人なしとて 春ぞ忘るな」
と一晩にして太宰府まで飛んで行った飛梅の話をなくして語れません。
実は東風をコチと読むことを教えてくれたのは、さだまさしだった(飛梅って歌に出てきます)私はここでなんとなくつながったのです。
天神様を信仰してる、もしくは大事にしてるうちだったんだなと私の勝手な思い込みで決めてしまいました。
天神様から近い無縁坂を幼いさだまさしの手を引いて登る母の姿を想像しながら、来春の梅の季節は湯島詣と洒落込みませふ。

いいなと思ったら応援しよう!