日本人に親しまれている農村画家、ジャン・フランソワ・ミレー。その生き様をたどる。
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画家ミレーの作品は、日本人に合うのだろうか。どこか安らぎを感じるし、日々の生活とも違和感がない。多分、あらゆる画家の中でで、最も日本人の心をつかんだ人物といえる。学校の教科書に載っていたミレーの絵は、我々の魂をに染み付いたのではないだろうか。
*ミレーの生涯、幼少期①
フランス西部ノルマンディー地方の小さな村に、1814年に生まれた。この1814年と言えば、ナポレオンが退位しブルボン王政復古した年である。亡くなったのは1865年。フランスの第3共和国憲法が制定した年で、日本では明治7年。8人兄弟の上から2番目、その長男だった。父の系統は、この地方をおさめていた領主だったと言う。そんな父、教養もあり芸術の素養もあった。農業の傍ら絵も描くし、音楽の指揮もしていたようだ。
ルソーは6歳で学校に入った。12歳の時にはラテンを学び始める。幼いルソーは、子供のころから農作業を手伝い、その合間に写生もしていたようだ。ルソーの描く絵については、父親のみならず、祖母や母も評価していたと言う。
*青年期のルソー②
父親は1835年1月に亡くなった。この時ミレー20歳、祖母はミレーに対し絵画の修行をするよう勧めたと言う。シェルブールの画家ラングロアに弟子入りすることとなった。師匠は、ミレーの才能に目をつけ、パリ国立美術学校へ進学するように推薦した。このとき市議会と県議会から合わせて年間1000ルーブルの奨学金がでたと言う。
パリに出たルソー、23歳だった。師事したのは歴史画家のポール・ドラルーシュ。しかしどうも画風が合わなかったようだ。この学校へは行かずに、毎日ミレーはルーブル美術館に通ったという。さまざまな画家の絵を模写している。翌年、初めてローマ賞に作品を出したが、落選した。
国立美術学校も辞めてしまう。パリ公式美術展(サロン)にも出品したが、再び落選となった。12月には奨学金のほうも打ち切りとなる。だが、翌年1840年にサロンに出品すると初入選した。描いたのは友人の父親を描いた。『ルフラン氏の肖像』である。
*肖像画家として活動③
ミレーはシェルブールに戻り、肖像画家として名声を得るようになる。このときポーリーヌと女性と結婚した。洋服仕立て屋の娘だったが、どうも体が弱かったようだ。この土地でミレーは50点もの肖像画を仕上げた。
再びポーリーヌとともにパリに行ったが、結核を患っていたため、1844年4月には亡くなってしまう。原因のひとつは貧しかったことだった。後年のミレーは回想し、次のように言っている「生涯で最も苦しい時期だった」と…。失意の中でミレーは一人の女性と出会った。それが2人目の妻となるカトリーヌである。彼女は貧農の出、そのためミレーの祖母や母は結婚を認めなかった。だがミレーは別れなかったようだ。
再びシェルブールに戻ったミレー、描いた絵画を売り、金を貯め、再度パリへ向かう。すでにカトリーヌとの間には子供ができていた。売れるものをいとわず描いたミレー。描いたのは女性の裸体画だった。生活のためと割り切り描いていたと言う。だが、そんな自分にだんだん情けなくなったようだ。
*時代が変化、運が巡ってくる④
王政が倒され、第二共和制となったのは1848年2月。すると国立美術館長にミレーの仲間が就任する。新館長は、国費で作品を買い上げることとした。この3月、サロンに『箕をふる人』出品、好評を得ると、政府はミレーに注文するようになる。できた作品は『刈り入れ人たちの休息』。1800フランを手にする。
パリから60 kmの距離にあるバルビゾン。この村へ、仲間の誘いにより家族を連れて引っ越した。1851年描いた作品、『種まく人』をサロンに出品すると入選となる。この年の5月、祖母が他界。12月にはナポレオン3世が即位し、第二帝政となった。1853年4月には母も他界。妻カトリーヌと正式に入籍した。
しかし帝政となると、ミレーの作品はまた売れなくなる。パリ万博に出品した『接ぎ木する農夫』は入選するも売れなかった。なんと友人の手をテオドール・ルソーが4000フランで購入してくれたと言う。また1857年にサロンに出品した『落穂拾い』。これは地主と小作人の権利問題にも踏み込んだ内容で、評価は良くなかったようだ。
*1860年代から晩年まで⑤
この頃になると、画商や実業家の注文を受けるようになった。1867年のパリ万博では、ミレー専用の展示室が与えられたと言う。出品した9点の中には、『落穂拾い』や『晩鐘』も含まれていた。この年、盟友のテオドール・ルソーが亡くなる。
翌年(1868年)になると、ミレーは頭痛が止まらなくなったと言う。どうも脳腫瘍だったようだ。同年、政府からレジオン・ドヌール勲章が授与された。1870年、サロン最後の作品『牛乳をかき回す女』をだした。70年代になると描けなくなるミレー。だが、けじめとして亡くなる直前、1875年1月3日にカトリーヌと結婚式を挙げる。それからわずか2週間、この世を旅立った。
*まとめ
ポーリーヌとの間には子供はいなかった。一方2番目の妻、カトリーヌとの間には、三男六女をもうけている。なんと2人の肖像画が、2点とも日本にあったのだ。ポーリーヌが山梨県立美術館、カトリーヌは八王子の村内美術館だったのだが、今はどこに行ったのだろうか。
彼女2人の肖像画を見ると、か弱そうなポーリーヌに対し、生活感あふれるカトリーヌ。そんなふうに見てとれる。いずれにしても、このニ人が、ある時代のミレーを支えたことに違いは無い。そんな目で眺めている自分があった。