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酪農文化『東京さでベコ(牛)を飼うだ〜♫』とは?


#酪農 #東京で酪農
#酪農危機 #時事問題

吉幾三の名曲に「おら東京さ行くだ」がある。その歌詞、いちばん最後に出てくるのが「銭コァ貯めて、東京でベコ飼うだ〜」。お笑いソングとも言うべきもだが、じつは明治期の近代日本をあらわしていた。今回、その辺りを見ていくこととしよう。

*近世日本、酪農が始まった理由
明治維新により、現在の東京である江戸には、人がほとんどいなくなってしまう。将軍につかえていた御家人や旗本は、将軍とともに駿府、今の静岡に行ってしまうし、大名も国元へと帰っていった。中心部にあった藩邸や屋敷はもぬけの殻となる。一部は官庁や兵営として使われたものの、大部分は空いたままだったのだ。

誰もが使わない広大の土地、これを利用してある事業が盛んとなる。それが酪農だった。江戸時代の日本人、ほとんど牛乳などは飲まない。明治期となり、西洋文化が入ってきたことで、一気に広まっていったのだが、これに明治政府は目をつけた。職業にあふれた人々に、この酪農をすすめていく。

これは明治となって3年後の1870年、明治政府は「築地牛馬会社」を設立したことで、それがよくわかる。国として牛乳を飲むことを推奨し、チーズやバター等の乳製品製造も奨励した。仕事を失った大名やその家臣たちは、この事業に着目したようだ。麹町・牛込・本所などで牧畜を営むようになる。

細かく見ていくと、東京初の牧場は、四谷に開かれた「四谷軒牧場」明治4年(1874年)のことだ。この牧場、東京が発展していくことで、下町へと移っていくことになる。大正時代には代々木に、昭和5年(1930年)となると世田谷に移っていった。昭和30年代では1万平方メートルの牧場で、乳牛300頭を飼育していたが、周りの宅地化により、昭和59年(1984年)に閉鎖となる。

*現在2025年、東京の酪農は
いまだに東京のはずれでは酪農をいとなでいる人たちがいる。その数40戸と言われ、7品種の牛を飼育し、乳製品の製造販売まで手がけているようだ。そのいくつかを見ていこう。

①東京、瑞穂町の清水牧場。1946年創業で、120頭の乳牛を飼育する。東京では唯一の自動搾乳ロボットで搾乳をおこなっているという。毎日、東京牛乳として出荷、牧場内では「ジェラートショップ」も開店したようだ。

②東京の八王子市、磯村ミルクファーム。80頭の乳牛と13頭の羊を飼育。住宅地の中にあるものの、広大な牧草地で牛を育てている。また、この牧場では、乳搾りの体験や仔牛との散歩、石窯ピザ作りなどもおこなっていると言う。

*日本での酪農家の現状とは
酪農家の平均年収は、4百万円を下まわる。現在は危機的状況のようだ。コロナ禍により需要が落ち込み、ロシア・ウクライナ戦争で飼料価格が高騰、円安により飼料や燃料のさらなる値上げも足を引っぱった。さまざまな努力をしても、それに追いつかないとされる。後継者不足も重なり、かなり危ないことになっているようだ。

昨年(2024年) 12月の農水省調査で、全国な酪農家の数が初めて1万も下まわったと言う。2005年からの調査だが、この1年間に減ったのは、5.7%、600戸弱のようだ。われわれ消費者としても見過ごすべきではないと言える。

*まとめ
そもそも食糧は、人間の生存権にかかわる。世界の歴史を見てくると、それがよく分かるのだ。自国の農業を潰した国に繁栄などはない。しかもいざ戦争となれば、真っ先に食糧の取りあいとなる。政府もメディアも、そのことに目をつぶってしまっている。これはかなりの問題と言えるだろう。

欧州では、積極的に農家や酪農家に、公的助成をおこなっている。世界情勢のなかで弱い立場にあるのが農業。放っておけばさらに減ってしまうのだ。どうしても公的助成をおこなうしかないだろう。一旦失われたものを取り戻すのはほぼ不可能といえる。だからこそいま行うしかない!そう考えるのだ。

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