秦の始皇帝陵と兵馬俑!そのいくつもの謎に迫る!
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今から2200年も前、お隣の国 中国で作られたという兵馬俑!初めて見たときには驚いたものだ。すでに2000体が修復されたというが、まだ6000体はそのままだという。始皇帝陵の隣りの畑で井戸掘りをしているとき、たまたま見つけたとされる(1974年3月)。考古学の専門家により、すぐに調査がはいった。するとこの兵馬俑、全てことごとく壊されていたという。
*兵馬俑が壊された理由!
キホン考えられるのが次の3つ。⑴災害等で自然に壊れた。⑵盗掘者によって後年になって壊された。⑶秦が滅んでまもなく意図的に壊された。最近の調査によると、兵馬俑のでる箇所の土が赤くなっているという指摘がある。赤色化するのは火をつけ燃やされたということ。ここから秦に反感を持つ勢力により、意図的に破壊されたという推論となった。
しかし、ここまで徹底的に破壊する意味はあったのか?という疑問は残る。やはりそれほどに、秦の始皇帝という人物を恐れていたということなのか?と思った。古代においては、死者が蘇ることも信じられていたようだ。きっちり全てを消滅することで安心感を持ったとも考えられる。
*兵馬俑のいくつもの不思議!
兵馬俑の特徴としては⑴高さ180センチ重さ200キログラム。⑵すべて陶器でつくられていた。⑶人物、一人ひとりの顔が違う。⑷兵士だけでなく、官僚や家畜などもつくった。⑸どれも生き生きとした丁寧なつくり。
この秦時代につくられた兵馬俑だが、後にも先にも、これだけ大きなものは造られていない!漢の時代となると、高さ50センチほどだという。人物ごとに顔が違うというのもすごい。いわば芸術と見てもいい。始皇帝は自分の周りのありとあらゆるものを造らせたようだ。しかも本物にかなり似せて…。
*兵馬俑の技術力、どこから?
秦という国はもともと西方に位置していた。つまり西国の国々とは、かなり関係のある国だったということ。西方からは様々な情報やモノが入ってくる。だとすれば、メソポタミア文明やギリシャ彫刻、さらにエジプト文化も知っていたと思われる。
秦という国では、西方からくるヒトとの交流も盛んだったと思われる。こういった彫像をつくれる職人が、何人も国内に入ってきたのだろう。それが兵馬俑つくりには生かされた。金属加工の集団、粘土細工の集団、焼き物作りの集団。これら全て分担し、組み立てをいったようだ。
*秦という国の特異性!
その文化に特徴がある。馬を養い、鹿や虎の狩りをする伝統。そこから、これらの動物を敬う文化ができた。これらの動物が死ぬと、棺に収められて埋葬する。そのとき飼育していた人物の俑も一緒に入れていたようだ。
中国で生まれたそれまでの国々とは違って、秦は中央集権国家だった。地方の隅々まで官僚が収めていた。したがって、きわめて合理的に物事がすすむ。農業であろうが、治水事業であろうが、効率的におこなうことができた。そのため、農産物の収穫量も増え、国としても多くの財力を蓄えられたわけだ。
一方、この仕組みは、すべてのリスクを国王である皇帝が負うことになる。民衆の不満はすべて国王たる皇帝にむけられた。農業においては不作の年もある。またそれが毎年続くこともあり得る。そうなったときの反感は、すべて皇帝に向けられたということだ。
*秦が15年で滅んだ理由!
始皇帝は50歳で亡くなる(前20 9年)。この時、ちょうど地方視察の道中だった。ここで側近の趙高(ちょうこう)と李斯(りし)は、始皇帝の急死にたいし策をねる。自分たちが、この機を利用して権力を握ることを考えたのだ。
始皇帝の死を隠したうえで、皇帝の息子たちに、父の命令として死ぬように命じる。一方で、最も出来の悪い末っ子(胡亥こがい)を皇帝に擁立した。自分の言いなりになる胡亥を頭に据えたのだ。しかし、この胡亥も殺してしまう。このあと、趙高は李斯も殺すが、自分がすえた新皇帝により逆に殺されることに…。
各地に反乱が起きていた。それがまたたく間に国土全体に広がっていく。秦の国にはそれを押し返す力はもうなかった。民衆からの指示をえた劉邦(りゅうほう)が、次の時代を切り拓いていく。
まとめ
始皇帝が後継者を決めておかなかったことが、一番の間違いだったと言える。そのうえ側近たちも、腹に別のものを持っていた。多分始皇帝、人を信じることができない人間だったかもしれない。常に疑いの目を向ける。だから側近も反旗を翻したのだろう。
この秦の話し、司馬遷の歴史書『史記』りよるところが大きい。別と言い方をすれば、これ以外ほとんど資料を残っていなかったのだ。その意味でいえば、兵馬俑の発掘は、新しい知見を私たちに与えてくれるものと言える。これからさらに多くのものが見つかれば、新しい情報を得られるだろう。