中浜万次郎、『ジョン ・マン』と呼ばれた男、その生き様は壮絶だった!
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インディー・ジョーンズという映画、もちろんフィクションである。それがこれの数倍も冒険した日本人がかつていたのだ。それがジョン万次郎だった。それだけではない!頭が良かったうえに度胸もあり、人柄も抜群だったと言われる。まだ鎖国をし、国を閉じていた幕末の社会のなかで、初のグローバルな人間でもあったのだが、なぜか日本では未だに評価がひくい。
*万次郎14歳から25歳!
幼少のころは、その気性の強さでは誰にも負けなかったようだ。漁師の家に生まれた万次郎。14歳のとき鯵鯖漁に駆りだされた。船頭は、38歳の筆之氶で、あとは16歳から26歳までの3人。万次郎が一番若く、炊事係だったとされる。しかし暴風雨に見舞われ、6日間も流され、行き着いた先は無人の鳥島だった。ここでこの5人、魚や鳥をとって143日間過ごしたと言う。
たまたま近くを、アメリカの捕鯨船(ジョンハウンド号)が通りかかり救助される。助けられたとはいえ、家に帰りたい5人は船長(Wホワイトフィールド)に頼み込んだ。しかしそれはダメだと言われる。日本は国を閉じ(鎖国)、外国船が近づくだけで襲ってくると言うのだ。仕方なく5人は船とともに、ハワイに向かうこととなる。
この船長、万次郎の人柄に惚れたようだ。一緒にアメリカにゆき、教育をうけないかと、万次郎に聞くと、あっさりその申し出を受けいれた。4人をハワイで下ろし、万次郎だけを乗せた船は、東海岸のマサチューセッツ、ニューベッドフォードに戻る。この近くの街で、小学生にまじり英語を学ぶようになる。さらに専門学校では「英語、数学、測量、公開術、造船術」までも学ばしてもらう。
ホイットフィールドの人柄の良さは、万次郎にとって幸運なことだった。この街に住む多くの人たちは、勤勉と清廉なピューリタンだったということだ。決してアメリカ人だからと言うわけではない。学校を首席で卒業した万次郎、すぐに捕鯨船に乗りこみ、この後3年半におよぶ航海に出たという。幾多の困難を乗り越え、万次郎はベテラン航海士となった。
*日本への帰国!
海での遭難から10年以上の月日が流れていた。どうしても日本へ帰りたくなる万次郎。しかし旅費が足りない。ここで良いニュースが目にとまる。西海岸サンフランシスコで、空前のゴールドラッシュが起きているというのだ。この地で金を掘りだせば、一攫千金は間違いない!そんな話し。
サンフランシスコに向かい、なんと半年ほどで不足の250ドルを稼いだという。手持ちの金を入れ600ドル。これで何とかなるはず!その思いで米国本土を後にして、中国に向かう船に乗り込む。途中、ハワイに寄港したおり、以前の漂流仲間にも声をかけると、2名が一緒にいくと言う。中国に向かう船にのり、途中の琉球(沖縄)近くで持ってきたボートに3人が乗りこみ、琉球にたどり着いた。
*帰国後の万次郎!
鎖国している日本、海外へ行くのは法を犯す大罪だった。しかし、このとき黒船が来航し、開国を米国から迫られていたのだ。琉球で一旦止めおかれ、さらに薩摩でも藩主島津斉彬の質問があり、長崎でも幕府より尋問を受けた。
1年数ヶ月も拘留されて、土佐の郷里にようやく帰れた。しかし、数日後、藩主・山内容堂より呼び出される。そして、藩の重臣や学者からの質問攻めにあった。その学者、川田小龍が聞き書きしたのが「漂噀紀略」(ひょうそんきりゃく)である。
*幕府からの呼びだし!
ペリーに開国を求められ、困りはてる幕府。アメリカについてのどのような情報でも欲しかったようだ。呼び出された万次郎、直参旗本という身分で取りたてられる。これは異例の出世だった。たんなる一漁師が、御普請役になったのだから…。
ただやはり万次郎を疑う人物も幕府内にはいたようだ。通訳としての仕事は、けっきょく任されなかった。上司の江川太郎左衛門は怒りを抑えられなかったという。江川本人も、攘夷派から開国派として警戒されていたようだ。
*万次郎の功績とは!
幕末の日本にとって、米国の情報は喉から手がでるほど欲しかったと言える。川田小龍の聞き書きした書物は、坂本龍馬など多くの人たちに影響与えた。その結果として、日本は開国に向かうことになったということだ。
このほか万次郎の功績は⑴航海術の専門書「ボウディッチ」の和訳。⑵東大の前身、開成学校での英語の指導(教授)。⑶幕府の軍艦教授として、造船、公開術、測量術の指導。⑷アメリカへの咸臨丸での航海時、その補佐をした!などである。
まとめ
1858年、日本側は日米就航条約の批准を携え、咸臨丸でアメリカに向かった。この航海での上官は、艦長が勝麟太郎、司令官は木村摂津の守。しかし、この2人、外洋航海の経験はほとんどなかった。出航するや否や、すぐに2人は船酔いとなり、自分の部屋にこもったようだ。
たまたまこの咸臨丸には、米海軍大佐のジョン・ブルークが乗り合わせていた。近年、公となったブルークの手記によると、日本の指揮官も水兵もまったく使い物にならなかったという。ただ一人頑張ったのが万次郎だったと書いている。
運良くこのニ人が乗ってくれていたおかげで、アメリカに無事たどり着くことができたのだ。 明治維新以降の日本、海運国家として急成長していった。これは万次郎がアメリカから持ち込んでくれた知識なしにはあり得なかったということだ。我々に日本人はもっと万次郎に恩を感じるべきだと思うが、いかがなものだろう。