画家の肖像「フェルメール」その生涯と、絵画の特徴をみていこう!
#西洋絵画 #フェルメール
#オランダ絵画 #バロック絵画
日本人の好きな画家と言ったら、モネとゴッホとそしてフェルメールということになる。どういうわけか、日本人の誰にも人気があるようだ。そういう私も、この3名の絵は、いつも気になっている。
さて今回は、そのうちの一人、ヨハネス・フェルメールを見ていこうと思う。オランダを代表する画家で、バロック絵画でも有名な絵描きである。本名は、出身地名も入れて、ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフトと言った。
フェルメールは、1632年ネーデルランド(今のオランダ)のデルフトに生まれる。父イニエルは、絹織物職人を務める傍ら、居酒屋と宿を営んでいた。さらに画商も行っていたようだ。この時代の多くの宿や飲み屋には、絵画が飾られていた。たぶん父イニエルは、これを真似たものと思われる。
幼い頃から、フェルメールの家には、画家が出入りしていたようだ。絵画についての知識は、この環境が大きかったと思われる。15歳でフェルメールは家を出て、絵の修行に入ったという。ただし、この期間、どこで誰に学んだかの記録は残っていない。
5年後の1652年、父イニエルが他界。父の営んでいた画商を引きついだようだ。翌年の1653年カタリーナ・ボルネスと結婚。カタリーナは、資産家の母を持つカトリック教徒の娘だった。
この頃フェルメールは、画家として一本立ちする。絵画職人ギルドの聖ルカ組合に登録。弟子を取りつつ絵を描く「親方職人」となっている。
しかし、1654年家の近くにあった弾薬庫が大爆発。家や家財を含め全てを失ってしまう。妻の母であるマーリアを頼ることに…。義母マーリアはかなりの資産家だった。いまの金額にして数億円は持っていたようだ。しかも親族からの相続で、年収も1500万円はあったという。
父の家業としていた宿屋と居酒屋を、1955年に引き継いだ。しかしどうも収入は安定してなかったようだ。デルフトの実業家で絵画収集家のビーテル・フォン・ライファンからこの2年後に200万円ほど借りている。
このピーテルは、この後フェルメールの絵を10点ほど購入してくれているから、良いパトロンになってくれたようだ。1662年にはフェルメール、聖ルカ組合の理事となっている。
1670年になると、実母の死去により、宿屋を相続するが、社会の雲行きがおかしくなってきた。167 2年には、不況となる。オランダ商人の独占していた香辛料の人気がなくなり、人々の生活は苦しくなるばかりだった。画家仲間も1人減り2人減り、気がつくと8割が辞めていたという。
フェルメールは、15人の子供をもうけた。そのうち4人が夭折。生活するには、宿代や酒場の収入もおぼつかない。仕方なく手持ちの債権を売却し、1673年7月1600万円える。さらに2年後の1675年7月には義母マーリアから1000万円借りるしかなかった。
この年の12月15日、フェルメールは43歳の若さで他界する。翌年、妻と残された子供11人(うち8名が未成年)は自己破産することとなる。
最後は「文無し」となるほど、追い詰められたフェルメール一家。だが、20代後半から30代半ばまでは裕福だったと思われる。絵に使われている顔料ラピスラズリ、金に匹敵する価格というほど高価なものだ。また、描かれている衣装は、かなりきらびやかで、その価値がわかる。かなり派手な生活をしていた事は、想像に難くない。
*フェルメールの作品が少ない理由、
作品は、37点ほどしか見つかっていない。43歳で死亡したとはいえ、あまりに少ない。筆が遅いということもあったかと思われるが、それにしても妙だ。これは多分、フェルメールがなくなり、30年位経った時点で、人々の記憶から消えたことが影響しているのではないだろうか。19世紀半ばぐらいに再評価されたフェルメール。だが一時は、あの「真珠の耳飾りの少女」が、なんとわずか200円ほど売買されたことがあるというから、本当に忘れ去られていたのだろう。
*フェルメールの技法
⑴人物など中心をなす部分が、精密に描き込まれている。その一方で、周辺はあっさりとした仕上げだ。その対比は鮮やかといって良いだろう。周りにある衣類や小物類、そして背景の絵画はピント少しぼかしている。
⑵遠近法が秀逸。キャンバスの一点に消失点を決め、そこに鋲を打ち、さらにそこから紐をつけ引っ張る。その紐に合わせてチョークで線を引く。そうやって描いていくという。
⑶ポワティエという技法。明るく光ってるところに、白い点を入れて表している。
まとめ
43歳で亡くなったフェルメール。家族には相当な額の借金を残したと思われる。妻のカタリーナは、フェルメールが生涯手放さなかった「絵画芸術」という作品を、自分の母マリアに売ってお金を得た。
しばらくしてから自己破産を申請する。フェルメールがなくなって1年後の事だが、その翌年の3月には絵画の全てが競売にかけられたという。多分「絵画芸術」という作品だけは、親族のもとに残るようにしたと思われる。だとしたら、この自己破産の意味はどういうことになるか?自分の子どもたちのため、母マーリアの資産が減らない方法を選んだということだろう。