戦後、海外引揚者660万人、たどったその人生とは?
#歴史 #近現代史 #GHQ
#海外引揚者 #なかにし礼
戦後の海外引揚者、その中に著名な文化人が多くいる。作家の五木寛之と大薮晴彦、漫画家ちばてつや・赤塚不二夫。作詞家の「なかにし礼」。彼らの存在はどれもユニークで、日本人の心にインパクトを与え続けている。そんな彼らではあるが、海外引揚者のたどった人生は壮絶なものだった。
*海外を目指した日本人とは?
日本では財産などまるでない。海外にゆき、事業を興し、一発稼いでやろう!そんな開拓魂の人がいる一方、生活が苦しく今の状況から抜け出したい!そういった人たちがいたのだ。大半は後者であり、なけなしの金を工面して、海外へ渡っていった。日米開戦前の1940年には約330万人にたっしている。
連合国に大敗した日本。当初日本政府(旧外務省)は在外邦人を出来るかぎり現地に定住させるつもりでいた。しかしGHQはこれに待った!をかける。人道上これを看過できないとしたのだ。米国大使ジョージ・アチソンの声明文には「一般日本人の送還はまったく人道上の理由によってなされたもので……」とある。
*海外引揚者の受け入れ!
G HQとしては、まず軍人軍属の帰還を優先させる。その数、陸軍311万人、海軍62万人合わせて373万人だった。一般民間人は287万人で全引揚者660万人となる。これは人類史上でも、まったく例のないほどの大移動だった。
内訳としては、中国から311 万6千人(47%)、ソ連からは161万4千人(24%)、東南アジア74万5千人(11%)、オーストラリア、つまりボルネオニューギニアから13万9千人(2%)、米国(太平洋諸島)から99万1千人(15%)となる。これだけの人員を短期間に移動するというのだ。
*在外邦人、引揚の流れ!
担当は厚生省に設置した「引揚援護庁」がおこなう。引揚船については、GHQとの話合いの中で決まったとされる。国内の港は、18地域に用意した。問題は海外邦人の検疫。海外ではかなりの感染症が流行し、そのまま入国させると国内で広まる可能性がたかい。引揚者全員の健康をチェックする。
調べると引揚者のおよそ10%が、なんらかの病気にかかっていたと言う。1950年までにそのうち18 万人が入院治療。約4千人が亡くなったとされる。感染症だけでなく、劣悪な食事により栄養失調のものもかなりいたようだ。
厚生省としては、引揚を第一に考えたようだ。そのため、所持金は1000円とし、私財も手荷物1つまでとした。しかし、このことでその後帰還した引揚者と政府との間でこじれることとなる。引揚者にとって日本に帰ってきたと言っても、再建の目処は立たない。かりに故郷に帰ったとしても厄介払いされるだけだった。
国会でもこの問題を取り上げられ、1968年に引揚者支給法が交付。総額1925億円となる。年齢に応じ、50歳以上が160,000円、20歳未満が2万円の5段階の年齢区分により支給された。当時の三木内閣、これで最終的な解決をされると発表したが、彼の生活が再建されたわけではなかった。
*引揚農民のたどった人生とは?
戦前の小作農、日々の生活もままならない。そうした彼らは海外を目指した。外地にゆけば土地が持てる。夢と希望に膨らみ、海外に活路を見出したのだ。戦争前は確かに一時的には蓄えができたが、戦争になるとまた困窮するようになる。
日本に引揚た彼らに待っていたのは、小作農以下の生活だった。政府としても放っておくことはできない。そこで彼ら引揚者に土地を与えたが、そこは作物の育たない土壌だった。耕せど耕せど収穫はわずか。生活再建はままならなかった。
そこで政府が打ち出したのは、南米への移民。戦前、満州開拓を呼びかけるのと同じように、南米ブラジルなどの国への移住を宣伝する。向こうの国にゆけば土地が持て裕福になれるとした。ただ実際は未開の土地であり、収穫もままならなかったとされる。一部には土地の有力者になったものもいる。だが大半は貧しいままだったのだ。
*まとめ
引揚者の相当数が死んだとされる。その多くは餓死だった。作家の「なかにし礼」は小説「赤い月」の中で引揚げの状況を描いている。満州で酒造場を興し大成功する父。だが、終戦とともに満州人やロシア人が襲ってくる。病気と飢餓に見舞われながら、母は命かけで子供を守った。
我々はこの歴史を忘れてはならない。壮絶な体験をした日本人がいたことを……。改めて平和な国に住む幸せを感じるべきだ。だからこそ、国家・政府の暴走には目を光らせなくてはいけない。そう言えるのではないだろうか。