日本史『桶狭間の戦い』 信長の快進撃となったこの戦い!その実態とは?
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この桶狭間の結果、後の英傑3名(信長.秀吉.家康)が天下を収めることになった。ここで信長が負けていれば、歴史は全く変わったものになったことは間違いない。また、近世においては、この戦さが、太平洋戦争において日本の軍部にも影響を与えたようだ。それも間違った解釈によって…。それを今回はみていこう。
時代劇などで目にする桶狭間の合戦だが、どうもそのほとんどが間違っているという。理由は、江戸期に人気を博した『甫庵信長記』の記述に問題があったようだ。この書物をあらわした小瀬甫庵(オゼホアン)。儒学者であったが、故に信長を「いかに英雄に仕立てるか!」ここに心血を注いだと思われる。
甫庵の話しは、つぎの特徴がある。①信長軍が少人数で、大軍の義元勢に立ちむかった。②信長は、正面からの戦さをさけ、迂回奇襲しておそう。③油断していた義元軍にたいして、難なく大将の首をとった。
旧日本陸軍、その作戦の基本となった奇襲作戦。小が大に勝つには、このやり方が手本となったとされる。そんな軍部の考えのなか太平洋戦争は繰り広げられた。しかし、そのほとんどが大敗。間違った解釈がつくりあげた悲劇と言うしかない。
小瀬甫庵は、『信長公記』という書物をもとに、話を組みたてたという。この書物、信長と同時代に生きた信長の側近、太田牛一(当時30歳)が書いている。しかも、この書をしたためるにおいて、その奥書きでこうも言っている。「故意に削除したり、創作はしていない」さらに続けて「もししていれば、神罰を受ける!」と…。
近年の研究では、この太田の『信長公記』をもとに考えなおす!というのが主流の考えとなっている。そこで、太田の言っていることが、どうなっているのか見ていこう。
そもそもなぜ義元が2万5千もの
大軍をもって尾張に攻めこんだか?だ。
これは信長に攻められていた「大高城」と「鳴海城」の救援のためだった。信長の父である信秀、その支配下にあった2つの城。信秀の死後、城主の寝返りによって、今川方に組してしまう。これに対し、信長は、各城のまわりに砦をきづき、兵糧攻めをおこなった。たまりかねた城主は救援をもとめ、そこで立ちあがったということだ。
『信長公記』によると、以下のようになる。
まず、5月17日義元の先陣隊は沓掛にでむき、18日には大高城へ兵糧を運びこむ。この報をきいた信長、とくに何をするわけでもなく、雑談しただけで、家臣を帰したという。
19日夜明け、鷲津砦と丸根砦が今川軍に囲まれたとの報がもたらされる。これを聞いた信長、敦盛の舞をはじめる。そして「貝を吹け」、「具足をもて」と下知をくだし、わずか5騎で城から飛びだしていく。
城から3里の距離にあった熱田神宮。そこに着いたのが朝7時ごろ、東方で二条の煙が立ちあがっている。鷲津砦と丸根砦がおとされたことを信長は知ることに。すぐ信長は出陣、兵が一人二人と追いつき、総勢200ほどになる。
熱田から内陸の道をすすみ、いったん丹下砦にはいり、さらに善照寺砦にすすんで兵の参集をまった。一方、義元は桶狭間山に兵馬をやすめて休憩。19日昼ころ義元、両砦の陥落をきいて、機嫌をよくし、陣中で謡をうたった。
信長が善照寺砦にはいったことを知った佐々隼人正たちは300の兵で、今川方を討つべく攻撃にでる。しかし跳ね返され、逆に首をとられてしまう。
信長はさらに中島砦へと向かう。中島までは深田の間をぬってすすむ一本道。敵の義元からもまる見え、家老たちは信長を諫めた。
しかし、信長は、その話は聞かず、中島砦へとすすむ。その数2千にも満たなかった。
さらに信長は、桶狭間の山際まで、隠れながらすすんでいく。するとにわかに天が曇り、強風が吹きつけ、豪雨となる。やがて空は晴れてきた。信長は槍を手に突きだし、大声で「スワ、かかれっー」最後の下知をくだす。全軍は、義元本陣めがけ、黒い玉となってかけだした。
この様子をみた義元勢、ひとたまりもなく崩れた。午後2時ごろの事、旗本300騎で逃げまどう今川軍。しかし数度の攻撃で50騎まで減ってしまう。ついに信長軍の服部小平太と、毛利新介が義元に肉薄。義元は服部のヒザを切ったが、毛利の槍に突きふせられた。ここで義元の首はおとされる。今川軍は総崩れとなった。
まとめ
『信長公記』では、信長は迂回せずにまっすぐ義元のいた「桶狭間山」に向かったとされている。この場所に布陣したことが義元の致命傷だったようだ。逃げようにも、あたりはぬかるみ、かなりの凸凹が至るところにあった。
考え方にもよるが、あえて信長が義元を桶狭間山に誘いこんだとも見える。大高城を取りかこんだ砦、たいした兵も置いていなかった。ここがすぐに落とされる事は容易に理解できたはず。あえてここを取らせて、義元を油断させたのだろう。
そもそも義元が救援に向かったのは、信長の戦略のようにも見える。信長が率いていたのは、日々訓練をおこなった正規軍。一方、義元の軍のほとんどは、半農半兵といわれる者たち。もちろん義元のまわりには正規軍もいたが、あまりに数が少なかったといえる。やはり、負けるにして負けたとみていい。
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