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日本史、戦国時代の武将、今川氏真(ウジザネ)の生残り戦術とは!現代にも通じる処世術!
#今川氏真 #氏真 #日本史 #戦国時代 #徳川家康
戦国時代、最も驚くのが、桶狭間の戦い。今川義元と織田信長との争い。今川軍25,000対し、織田軍わずか3000と言われている。今川義元は、余裕の出陣だった。負けはないとの確信からだ。しかし、結果は全くの逆。信長の奇襲により、義元はあっけなく首をとられた。
小学校から中学高校で日本史を学んでいる日本人にとっては、なぜこんなことになったのか!興味は尽きない。また、劣勢のものが強者を打ちまかす『ジャイアントキリング』に、ワクワク感が増すものだ。常識では考えられない勝利に、信長の名声は上がった。
今の我々も驚くのだが、今川義元の嫡男・氏真(ウジザネ)はどうだったのだろうか?全くの寝耳に水だったはずだ。ここから今川氏真の生残りへの戦いが始まった。
1560年間の戦いのとき、氏真は22歳だった。今川家内部でも動揺が広がる。多くの家臣が、今川家を離れた。このとき18歳の家康、当時の名・元康もすぐに三河に戻る。
今川家、周りとの様々な小競り合いがあった。そして、桶狭間から8年後、北から武田信玄が攻めてきた。西からは家康が動く。掛川城にいた氏真は、戦わずしては、和睦の道をえらぶ。ここから氏真は根無し草となって各地を歩くことになる。
氏真の妻、早川殿の実家は、北条氏だった。まずはこの北条氏を頼ることにする。しかし、ほどなくして、北条と武田が手を結ぶ。氏真が次に向かったのは、家康の元。家康に臣従したのだった。家康としては、氏真を家臣にするメリットがあったと言える。この地での、今川家のネームバリューだ。
北条氏が秀吉に滅ぼされ、秀吉の命により、家康は国替えで関東へ。氏真の望みは、駿河を取り戻すこと。この夢が叶わなくなった氏真。54歳になった氏真の足は、自然と京にむかう。この京には顔なじみの公家が多くいたためだ。この地で、30年以上の長きにわたり過ごした。氏真はこの地で多くの和歌を読んでいる。
さらに20年後、孫の代となっていた今川家。75歳となった氏真が向かったのが江戸の地だった。旅の途中、駿府で家康に謁見。氏真と家康は、幼い頃から交わりのある仲である。家康は、氏真の文化人としての教養、そして公家の情報や人脈、儀式での作法の知識に惚れこむ。
1614年77歳で命をとじた氏真。しかし、徳川家にとっては必要不可欠な知識をもつ今川家子孫を大事にあつかう。朝廷や公家との交渉役、高家旗本として、今川家は幕末まで家をつないでいった。まさに芸は身を助ける!を地でいった氏真。現代でも学ぶ事は多いだろう。
東京杉並区に、今川という住所がある。今川家3代直房が、徳川秀忠から与えられた領地500石だ。ここに観泉寺という今川家の菩提寺がある。そこに、氏真とその妻(早川殿)の墓が、並びたつ。この直房は、日光東照社を一段位高い日光東照宮へと引きあげる功績を挙げた。
氏真の逸話
⑴妻、早川殿を心より愛していた氏真。妻の死後も再婚しなかった。
⑵妻の実家、北条氏が滅んだあと、北条氏の遺児や旧臣を保護している。
⑶氏真は、晩年には家康をたびたび訪ねた。家康の人質時代や戦国時代の思い出話しを延々としたという。困った家康は、江戸から離れた品川に立派な屋敷を与えたそうだ。
まとめ
今川氏真の生残り術とは、①戦さで負けても、けっして死を選ばなかったこと②教養や文化を学びつづけたこと③家族や親族を愛し、人との交流を大事にしていたこと!
武田家をついだ勝頼とは、逆だった。勝頼は家臣との交流を重視していなかった。戦さで負けたとき、落としどころを考えていなかったといえる。
現代でもこの生残り術は、有効な処世術といえるだろう。