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日本史『武田信玄』の業績は、家康によって引き継がれていた!

#武田信玄 #信玄 #日本史
#戦国時代 #歴史

私にとって、信玄といえば「武田節」。友人にも山梨県人が多いということもあるが、はじめて勤めた会社の「社歌」がこの武田節だった。社長もふくめ、山梨県人の多い会社で、バス旅行で一杯入れば、すぐ竹田節が皆の口からでる有様。しかし、なぜか!嫌いではなく、どちらかと言えば共感は持っていた。

歌手の三橋美智也が1961年に発表した楽曲、「武田節」。たちまち大ブームとなり、ミリオンセラーにも達成するほどだった。歌詩の途中で「風林火山」の詩吟もはいり、かなり凝ったつくりとなっている。

*信玄という人物!
武田節の歌詞にもある通り、「情けは味方、仇は敵」を信条としていたようだ。信玄が家督を継ぐ以前、その父である信虎は、弟の信繁を寵愛した。武田家をこの弟に継がせようとも考えていたとされる。

そんな父をみかねて、突如として、父を隣国駿府の今川氏の元へ追いやる。実は、信虎の所業に耐えかねた家臣のほとんどが、信虎に叛旗をひるがえしたことが原因なのだが…。今川家のもとで暮らす信虎にたいし、信玄は生涯にわたり、金銭援助をしたという。

*人は石垣とは?
江戸時代になって描かれた「武田24将図」。この図の興味深いところは、信玄本人もいれて24将というところだ。つまり信玄プラス23将。多分すでに江戸期において、信玄は他の武将と同じ立場だと言っているかのごとくである。

実際に、信玄が制定したとされる国内法「甲州法度次第」においても、「法に反すれば、この信玄すら罰せよ」としている。また、「喧嘩両成敗」や「宗教対立、浄土宗と日蓮宗との争い」を戒めているほどだ。領国内の争いが、人の和を乱し、それが国が衰える原因とみていた。

*人は城とは?
信玄が、日常的に生活していたのが、躑躅崎(つつじがさき)の館だった。防御機能のあった住居のようだが、それでも城とは雲泥の差がある。近くに山城も備えていたが、自分の家臣をかなり信じていたと思える。

家臣が周りにいるから、自分は安心している。それを表現しているかにも見える。ある意味、それを家臣たちにアピールしていたのだろう。人の心の機微をつかむのも上手かったようだ。

*信玄を引き継いだ人物!
信玄は1573年53歳で息を引き取る。その後を引き継いだのが、信玄の子・勝頼だった。しかしこの勝頼は領国経営に失敗し、そのうえ、長篠の戦い(1575年)で信長家康軍に大敗してしまう。結果、家臣の離反となり、400年間続いた名門・武田家はあっけなく滅んだ。

これに目をつけたのが、家康だった。家康は、信玄のやったすべてのことを学んでいたようだ。積極的に、信玄の旧家臣や技術者を雇い入れている。学ぶことについては負けないと自負していた家康だったが、この信玄には一目をおいていたようだ。

信玄の業績を列記してみると、交通網の整備、信玄堤に代表される治水事業、金山開発、森林開発などが挙げられる。さらに、法整備もおこない、民政家としては、他を圧倒する業績をのこした。家康は、これが全てを丸ごと取りいれたの感がある。江戸260年におよぶ繁栄、その礎となったのは信玄の手法だった。

*信玄は京を目指したか!
上杉謙信との戦さに明け暮れし、京上洛(天下取り)が遅れた!とする考えがある。しかしこれはどうも違うようだ。そもそも京から遠すぎた甲斐甲州。周りは有力武将に囲まれている。やはり身動きが取れなかったというのは事実だ。

50代となり、信長家康に戦いを挑んだ信玄。しかし、持病は日に日に悪くなるばかり。途中で息絶えてしまう。これは天下を目指したというより信長家康軍が攻めてくるであろうことを読んでの行動と思える。最後の力を振り絞っての行動、一度は家康に勝利するも後が続かなかった。

まとめ
信玄が描かれている絵は、どれも割腹がいい。しかし、本当のところは痩せていたようだ。長年にわたり持病があり、体力を落としていたと思われる。しかし、なぜか絵となった信玄は、威風堂々として凄みがあるように見える。

人柄はきわめて温厚だったという。また人懐っこいところも特徴だった。「信長公記」によると、全国を行脚していた一人の僧侶が甲斐に立ちよったとき、信玄に招かれたそうだ。そして「信長が好んだという流行小歌(はやりこうた)」を歌わされている。こんなところも、信玄ならではであろう。

信玄といえば「風林火山」が有名である。これは兵法で名をなした「孫子」の言葉だが、信玄はこれを軍旗に採用した。学問のない者たちにとっては、さぞ驚きだっただろう。これ!今のコピーライターのセンスに近いものがあるのではないか。

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