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「好き」こそ、人の本質!自分の「好き」を見つけよう!
#自己啓発 #才能を伸ばす
#好きを極める
「好きこそ物の上手なれ」。一人前の人間になろうと思ったら、自分の「好き」を極める。これこそが最強の論理だという。ところが子供のころ学校で学んだことと言えば、これとは全くの逆。嫌いな科目についてよく学びなさい!である。これには努力がいるが、そう長く続くものではない。けっきょく身に付かないのだ。
*「好き」の言語化、そのメリットとは
人はなぜ好きなものと、嫌いなものがあるのか?これって意外に自分自身でもよくわからない。「言語化」とは、細分化する作業に他ならない。「好き」をどんどんと深掘りして、細かなところまで見ていくという作業。これにより自分の内面を探りだし、品性や気質、指向性なども見つけ出す。
社会は競争原理のうえにある。競い合い、争い合う!だが、大前提として、その裏には、お互いの繁栄がなくてはならない。相手を潰すことではなく、相手と共に果実を得るのだ。「好き」なことを目指せば、それに最もはやく手が届くようになる。自分の「好き」を見つけだす作業こそ、社会を生き抜くチカラとなるはずだ。
*舞台美術家の妹尾河童!
自叙伝とも言える小説『少年H 』が大ベストセラーとなって、今では小説家エッセイストともいえる河童さん。なんともユニークな人物と言える。戦時中は旧制中学校に通っていた。時代は軍国主義であり、すべての国民は軍に協力しなくてはいけない。だが河童さん、殴られようと罵詈雑言あびせられようとも、自分の「好き」を貫きとおす。
とにかく、絵を描くことが「好き」だったのだ。あらゆる作品の模写をおこなったと言う。そのうえ自分の知らないことには何でも首を突っ込んで聞くのだ。母はキリスト教徒で、友人には米国人の夫人がいた。彼らが帰国して送ってきた風景ハガキには、エンパイアステートビルが写し出されていた。これを見た河童少年、こんな大国と戦争やって勝てるのか?すぐに気づいたようだ。
河童さんの書いた本はどれも変わっている。とくに「覗いたシリーズ」では、挿絵はすべて空中から眺めた鳥瞰図。そのうえ文字もすべて手書き。彼の書く文字はキレいで読みやすい。その人柄をよく映し出している。この本も「好き」でなければ、これほど凝ったものにはならなかったと思う。
*妖怪漫画家の水木しげる。
大正生まれの水木しげる。子供のころは低脳と見られていた。そのうえ学校には毎日遅刻する。進学を試みるが、ことごとく落第。何とか入学できたのが美術学校だった。だが戦時中のこと、軍隊に入らねばならず、送られた先は南太平洋の島。この戦さで、水木しげるは左腕を失ってしまう。戦後は日本や復員し、アパート経営をやるがうまくいかなかった。
だがこのアパート「水木荘」の住人に、紙芝居作家がいたことで運命が変わる。水木しげるも紙芝居作家になったのだ。紙芝居は毎日が勝負。子どもは面白くなければ見に来ないし、それでは稼げなくなる。ストーリー作りと、作画つくり、この両方をこのとき学ぶ。これが水木の第一歩となった。この商売、そんなに儲かるものではない。だが、「好き」だったのだろう。もくもくと描き続けたのだ。
戦後、テレビの普及で紙芝居は下火となる。この時ほとんどの紙芝居作家は、貸本マンガ家になった。水木しげるもその1人。だがこの商売もそれほど割の良いものではなかったと言う。それでも「好き」だったからこそ続けることができたようだ。
水木しげるの飛躍は、あなたに発刊された月刊誌「ガロ」の存在。にわかに水木しげるに注目が集まる。すると、少年マンガ雑誌からもお誘いがかかったのだ。またテレビアニメ化もするという企画も持ちあがる。今まで社会からも無視され続けていた水木しげる。余人を持って変えがたい漫画家になった。
*まとめ
このnoteを書き始め、昨日でちょうど365日(1年)となる。なんと毎日かき続けたのだ。やはり書くこと、人にものを話すこと、これが「好き」なのだろう。以前もブログを書いてはいたが、1週間に1回2回の投稿である。今回、様々なことを書く雑記ブログだったため、書き続けられたと思う。これならジャンルを選ばずかけるから楽だ。
始めてみてわかったのは、書くためには本を読んだり、映画を観なければいけないこと。このため、以前より読書量が多くなり、映画をみる回数も格段とふえた。やはり「好き」だからこそ、できたのだろう。