『妹尾河童』とワタシの不思議な縁!
#妹尾河童 #河童 #少年H
#舞台演出家 #藤原義江
*自分が、子供の頃の話し!
家が貧しくて夏休みといえども、家でゴロゴロし、ただテレビを観る毎日。親は親で、子供を〇〇へ連れて行こうなどという発想はまるでなし。
ある日、小学生の自分はたまたま、開局して間もないTVK(テレビ神奈川)を観た!そこに出演していたのが妹尾河童氏。1972年のことだった。
その前年に、文化庁からヨーロッパに研修視察に派遣されることとなり、その時の話をしていたと記憶している。そして、番組の最後に、自身が初めて書いた本をプレゼントすると言うのだ。まぁどうせ当たらないや!と思っていたが、なぜか応募する。
数日後に、郵便受けに小包が入っていた。開けてびっくり。応募して当たった本だったのだ。タイトルは『河童の覗いたヨーロッパ』。これはたぶん視聴率が低くほとんどの人が見ていなかったのだろう。
しかしこの本、河童さんのユニークさが出ていて、何故か心を掴まれてしまう。宿泊したホテルの部屋を、鳥瞰図で描いている。こういった画は、過去に見たことがなかった。
この本を見ても、この人が何をしているのか全くわからなかった。舞台装飾という職業すら何のことか全く知らない。今でこそウェブ検索すれば、ありとあらゆることが出てくる。しかし、当時はそんなものはない。ただ風変わりな人だなぁと思ったものだ。
私の趣味は、本屋での散策。暇さえあれば1時間でも2時間でも本を探しまくる。すると、数年に1度、河童と書かれた本が目に止まった。この妹尾河童「覗いた」シリーズ、7作も出版されいる。
1990年代初めのバブル崩壊以降の規制緩和で、私の生活はめちゃくちゃになった。生業としていた自身の会社、これも火の車。休みなどとっている暇もない。一年365日仕事をしていた。
当然のこと、本など読んでいる暇もなかった。ようやく一息ついたのが2006年頃のこと。本については空白を15年間。この頃、書籍は全く読んでいない。今になって、少しずつ読み始めている状況だ。
つい先週、オンラインのブックオフで、12冊ほど買ってみた。そのなかに『少年H』上巻下巻の2冊(単行本)含まれている。まだ読んでいないが、累計販売300万部だそうだ。出版元は講談社。多分一大キャンペーンをはったと思われる。
なにかかなりの批判もあると言う。河童さんも本人も、戦後50年(半世紀)たって書ているので、たぶん資料を見て書いたのだろう。そこで前後関係を間違い、指摘されていると思われる。
まだ、斜め読みの段階だが、ひとつ言えるのは、平和ボケした人が多いこの時代、戦争の悲惨さ!そこはキチンと書かれていると思う。
*恵まれた環境にいた河童少年!
親族には画家もいる。美術の才能は、その血筋から来ているのかもしれない。戦中でも、河童少年は画材で困ったことはなかったようだ。
子供の頃の友人に、藤原義江の息子がいた。藤原といえば、当時日本を代表するオペラ歌手だ。自身で歌劇団を1936年にはつくった。戦後は、すぐにも歌劇団を再開する。ここで抜擢されたのが、河童青年だった。
と言うよりも、舞台装飾を依頼していた舞台演出家への支払いを、藤原は遅らせていたことによる。当時、藤原の家に居候をしていた妹尾河童。舞台装飾については、何の経験もなかったが、無理矢理やらされる羽目になる。しかし、美術の才能があったんだろう。初めての舞台演出で、辛口批評家から褒められたという。
*28歳、フジテレビ入社!
河童青年、フジテレビ開局と同時に入社している。私たちに馴染みの深い、いくつもの番組を手がけた。「ミュージックフェア」 「夜のヒットスタジオ」。河童青年がやっていた知らなかったが、今考えてみるとなるほど、ユニークだと思った。1980年(49歳)でフジテレビを退社、フリーとなる。
*改名して河童に!
法律では改名はできるようだ。ただし、親のつけた珍奇な名前で困っている人を救うという意味合いで行われるらしい。
もともとの名前は「肇」(はじめ)。だから、少年Hとなった。普通の名前を珍奇な名前にしようというわけだから、裁判所としても前例がないとして断ったという。
しかし、ほとんどの仕事が河童の名前でくる。会社で呼ばれる時も河童だ。肇では誰のことかわからなくなり、困るということを訴え、ようやく認められたという。
まとめ
私としては、いろいろなヒトに、この妹尾河童の本を勧めてきた。とにかくユニークで面白い。いつもその画と文章に引き込まれてしまう。私にとっては特別な存在と言っていい。なにか不思議な縁で結ばっていたようだ。