見出し画像

書評 、水木しげる生誕88年記念『屁のような人生』

#書評 #ブックレビュー
#水木しげる  #貸本漫画家
#屁のような人生

けっこう分厚い本で、読み応えがある。尊敬する水木しげる先生の人生そのものが、圧縮されている本だ。最近になって中古で手に入れたばかりだが、購入して良かったと思っている。

*タイトルに込められた意味とは
どうも子供の頃、水木の兄と弟は「放屁」で張り合っていたようだ。とくに強烈だったのが、長男の宗平だった。兄弟のなかでも、その異臭は飛び抜けていたという。

私のバアさん(母の母)から聞いた言葉に、「言葉は聞けども姿は見えぬ、ホンニお前は屁のようだ」。存在はあるのだが、ないように見えるのが、屁というわけだ。漫画界では名をなした人物だが、自分では「とんでもない!とるに足らない人物だよ!」と言いたかったんだろう。

*水木しげる座右の書『ゲーテとの対話』
とにかく水木しげるは読書家でもあった。そうして見つけたのが、この『ゲーテとの対話』である。彼は終生、自分の生き方にしたようだ。なんと21歳から戦地である南方のラバウルにいったのだが、その時ですらこの本を離さなかったという。

水木しげる本人が言うには、自分の80%はゲーテだと…。様々な哲学書を読んだ水木。しかし、自分の考えに合ったうえに、人間の大きさを感じたのは、ゲーテただ一人だと言う。ゲーテは、他人と比較することを戒める。自分自身が自分に満足すればいいと。このゲーテの精神があったからこそ、戦争で生き残り、さらに漫画の世界でも生き残れたということだろう。

*反面教師だった父
水木しげるの父(亮一)は、早稲田大学を卒業している。島根県の田舎町には当時いなかったと思われる秀才だった。しかしこの父親全く働くということはしなかったという。趣味の映画や演劇鑑賞に明け暮れていたようだ。

水木しげるは、そんな父に育てられたが、ある意味それがよかったのかもしれない。父は、水木にたいし、「こうしろ、ああしろ」とは言わず、水木に画材を買い与えたという。それが水木にとって救いだったし、それが水木の画才やストーリー作家の芽を育てたとも言えるのではないか。

*兄や弟からみた水木しげる
まずは長男の宗平から。子供の頃の水木は、親から低脳と見られていたようだ。しかし、この兄は、特異な才能を持っていたと見ていた。様々な物集めにもその才能をあらわした水木。頭をつかい誰よりも多くのものを集めたようだ。

三男弟の幸夫は、どう見ていたか。軍隊時代に爆撃で左腕をなくした水木。復員したとき親に心配かけまいと、葉書を送ったようだ。そこには自分が片手となったイラストも書き加えられていた。人一倍優しい兄だったという。大人になってからの水木が、哲学書をよく読んでいたのはよく知っていた。軍隊から帰ってきた水木は、たくましく見えたそうだ。

*妻の布枝からは
貸本漫画家となったのが36歳。その3年後の39歳で結婚した。この辺りの話は、ドラマ「ゲゲゲの女房」で詳しく取りあげられている。郷里の島根でお見合いをし、その5日後には結婚式をあげ上京した。

妻の布枝は、東京は都会だと思っていたようだ。しかし、水木の住んでいたのは、調布の田舎だった。周りに家すらなく、住む隣は墓場だったようだ。

またこのとき水木は貧乏でもあった。なにせ貸本漫画が徐々に売れなくなっていたのだ。見合いのとき月に3万円あると言っていた。当時大学卒の月給が1万8千円。これなら問題ないと思っていたが、実際はそんなには稼げていなかったようだ。しかも日に日に収入が減っていく。つまり、極貧生活へまっしぐらだった。

しかし、妻の布枝は、水木のほがらかさに助けられたようだ。自分の作った料理もうまいうまいと言って食べてくれ、天真爛漫の笑顔見せていたという。

まとめ
貸本漫画家から、成功した人は、100人に1人いるかいないかだ。どうすれば、そこから抜け出れるか!頭をひねっていたとも言える。コツコツやっていれば絵は上手くなる。自分はストーリー作りは得意だ。そんな自信があり、決して投げ出すことはなかった。

やはり「ゲーテ」の力は大きかったのではないだろうか。他人と競争したって仕方がない。自分が進むべき道を、自分はただひたすらに進んでいく。その一途思いが、花開いたということだろう。水木は、この本が出版した5年後の2015年に92歳で亡くなっている。私たちに、一つの生き方を示してくれたと言っていいだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?