文豪 夏目漱石の生涯と、その妻(鏡子)について!
#夏目漱石 #夏目漱石の妻
#正岡子規 #漱石と子規
NHKドラマ『夏目漱石の妻』を観たのが、もう8年も前のこと。主役が、女優の奥野真知子。そう!今年(2024年)の朝ドラ『虎に翼』のナレーションをつとめている。一方の夏目漱石役は、長谷川博己。ドラマ『アンチヒーロー』の主役だ。妻の目をとうした夫の姿を現していたと記憶している。これを観て、夏目漱石はかなり面倒な人物だと思ったものだ。
*夏目漱石の生涯、その1
明治維新の前年(1867年)、いまの新宿区菊井町に生まれた。本名は夏目金之助(きんのすけ)。父は直克といい、牛込から高田馬場あたりを治めた名主だった。しかし、幕末から明治の動乱期、政情を安定せず、家計はかなり苦しかったようだ。
漱石は生まれてすぐ里子に出される。一度は引きとるも1歳3ヶ月で再び養子に出されたようだ。9歳くらいで一応は生家にもどるも、戸籍は21歳になるまで、そのままだったという。この体験が漱石にとっては、生涯つきまとうこととなる。育ての親(養父)が何かとあると、金の無心(たかり)に来たからだ。
夏目漱石、頭が良かったのだろう。16歳で駿河台の英語塾に入り、17歳では第一高等学校に入った。病気で進級には失敗するが、私塾での講師の仕事をしながら勉学に励み、22歳で帝国大学の英文科に入学。ほとんどの学科で首席を争うような成績だったが、英語については頭抜けて優れていたという。この時分に生涯の友人となる正岡子規に出会う。
1893年から1896年にかけて、中学や高校の英語教師となり、四国・松山や九州・熊本に赴任した。この96年には、のちに猛妻や悪妻とされる鏡子と結婚する。
*夏目漱石の生涯、その2
1990年に文部省より英語教育研究のため、英国留学を命じられ、9月10日に出発した。しかし、英国の大学での講義、よほど合わなかったのか!これは受けず、個人教授のもと、文学論を研究したようだ。しかしここで漱石は精神を病んでしまう。かなりの重症だったとも言う。
周りの誰もが心配するという有様。この情報は、日本にも伝えられ、すぐ帰国するよう命じられた。帰るとすぐ、東京帝国大学の英語教師となった。しかし、学生の評価はあまり芳しくはなかったようだ。前任の小泉八雲が素晴らしい講義をやっていたためだった。
ここで色々と心で悩ませることになり、夏目漱石またまた精神に異常きたす。とにかく、漱石の精神は、いつも休まる事はなかったようだ。しかし、ここで正岡子規の紹介で知り合った高浜虚子から意外な話が申しわたされた。神経の病には、創作活動が良いというのだ。
ワラをも掴む気持ちで、小説の執筆を始める。これが『吾輩は猫である』という作品だった。猫そのものも、心を落ち着かせる効果がありバッチリだったようだ。
正岡子規が発行する『ホトトギス』掲載されるや、人気は急上昇。1回読み切りとなるはずだったが連載となる。これ以後、漱石は様々な作品を書きつづけ、教職の仕事はやめ職業作家となった。
*夏目漱石の妻、鏡子!
4年と3ヶ月におよぶ熊本生活。家には書生もいるなかで、妻の鏡子は懐妊する。しかし、つわりがひどく、そのうえ流産となった。若き妻は、心を病み身投げすることに…。たまたまと投網漁の船に助けられたようだ。このときは夏目漱石も心配したという。夜寝るときなどは、妻と自分を紐をかけ結びつけたとされる。
英国から戻った夏目漱石。かなり心を病んでいたのか!妻にたいして暴力を振ったようだ。ちょっとした事でも、すぐにキレた。しかし鏡子は見放さなかったという。後年になって鏡子が話した言葉が残っている。「病気なら……その覚悟で安心していける。どんなことがあっても、動かないと決心して参りました」と。
悪妻といわれた鏡子。だが、夏目漱石との間には7人の子をもうけた。もし不仲であれば、こんなに子供をつくれるのか!この2人、けっこう言いたいことを言い合ったようだが、必ず心を合わせせるものがあった。夏目漱石も、英国からの手紙で「女房が恋しい」と書いたようだ。妻の鏡子も「私はどんなことがあっても死にません!ご安心ください」と返している。
まとめ
漱石は、何度も精神を病んでいる。したがって、妻に対する罵詈雑言をいくつも書き残した。これが世間に伝わり、猛妻や悪妻の評判がでたのだろう。しかし、これは病気によるものだったようだ。
だからこそこの夫婦。別れる事はなかった。自殺未遂のときの夫・漱石をつねに覚えていたのだろう。こんな優しいところもあるのだと……。夫婦関係は外から見たのではわからない部分が多いのだ。
夏目漱石には、多くの孫や曾孫がいて、それぞれが活躍している。彼らで精神に支障があるものはいなかった。夏目漱石、子供ころの境遇が、けっきょく心を病む原因になったと考えられる。